映画感想『ドラえもん のび太と奇跡の島〜アニマルアドベンチャー~』(2012年)

2024年1月10日 AmazonPrime Videoにて鑑賞。

 ここまでの個人的ワースト作品『人魚大海戦』と同じ監督によるもう一つの作品で、やっぱりこっちも良い作品とは言えなかった…。
 この2作の良くなさはどちらも根深いものがあると思うんだけど、それが別ベクトルの根深さなのが興味深い。『人魚大海戦』は戦争や美醜や世襲といった、現実世界でセンシティブな事柄に対する倫理的な甘さが良くなかったけど、これに対して本作『奇跡の島』の引っ掛かりは、ドラえもんという作品に対して、またはフィクションなるものに対しての無神経さが根底にある。

 まず細かい内容以前に気になるのは、のび助をゲストキャラとして扱うことの是非について。
 今回、のび太のパパこと野比のび助の少年時代を冒険に参加させるのは、今までの映画ドラえもんシリーズからするとかなりの禁じ手だ。
 日常から非日常の世界へと旅に出て、冒険や出会いと別れを経て成長し、また日常へと帰ってくる。ドラえもんに限らずジュブナイル映画基本の型だが、こと映画ドラえもんシリーズにおいて、日常と非日常は厳密に区別されている。よく「出木杉は冒険に連れてってもらえない」とあるあるネタにも挙げられるように、いつもの3人以外のクラスメイト、学校の先生、そして両親のいる世界は、冒険を許されたのび太たちの世界とは決定的に隔絶されている。彼らはあくまで、冒険のきっかけを生む退屈で常識的な日常であり、そして帰ってくる場所なのだ。
 ところが今作では、少年時代の姿、しかも記憶を失っているとはいえ、のび太の父親が冒険についてくる。そこに父兄参観的な気まずさというか、まさに“子供の喧嘩に親が出る”話に見えてしまい、子供たちの冒険という興趣を削いでしまっているのは否めないだろう。

 のび太が親子の情愛を実感するというテーマで話を作るなら、のび太の父親本人の話にしなければならない道理はどこにもない。
 ちょっと話は逸れるようだけど、この話の舞台はおそらく22世紀の未来ということになるのだろうが、その辺りがなぜかはっきりと説明されず、意図的にぼかされてるようにも思える。その結果、ロッコロ族という伝統的な暮らしを営んでいるらしきキャラクターたちが登場するにあたって観ていると混乱する。
 僕はこのあたり、22世紀が舞台ということを強調すべきだったと思う。そしてその中で、ロッコロ族が22世紀の高度科学文明時代に至るまで子々孫々と自分たち独自の歴史を受け継いてきたことをもう少し描きこめば、親子の絆というテーマとも呼応して良くなったんじゃないかと思う。
 こういう風に、ゲストキャラ同士の関係からのび太もまた自分の親との関係に相似形を感じ取る、という形にした方がより普遍的な話になる。そうであってこそ、観客である子供たちもまたスクリーンの中のキャラ同士の関係を自分ごととして受け取れる。それがフィクションというものではないかと思う。

 と、偉そうにわかったようなことを書いてみたけど、それよりもはっきりとフィクションに対する無神経さを感じるのは、この作品のセリフに対する扱いだ。

 実は本作、原作シリーズの“感動ゼリフ”をそのままいくつも引用している。以下はその一部。

「ひとにたよってばかりいては、いつまでたっても一人前になれんぞ。」

6巻『さようなら、ドラえもん』

「けっきょく、親だって、人間だもんな。ときにはごかいでおこったり、やつあたりすることもあるよな。」

3巻『ママをとりかえっこ』

「いっしょうけんめい、のんびりしよう。」

8巻『ライター芝居』

「これからなにがおこるにしても、ぼくらはず〜っといっしょだよ。」

大長編3巻『のび太の大魔境』

などなど。


 本作は言うなれば、『ドラことば 心に響くドラえもん名言集』(2006年 小学館)の映画化のような作品なのだ。

 当然原作のセリフにはそれぞれのエピソードの文脈がある。センテンス単独で成り立っている名ゼリフというのはない。既存の名ゼリフというものは、あくまでそのストーリーの中で発せられたから感動的なのであって、使えば話が感動的になる魔法の呪文ではない。(すごく当たり前のことを書いてて、自分でも頭が痛くなる。)
 “ドラことば”を使うのが目的化された脚本が、良いものになるはずがない。のび太たちが“ドラことば”を吐く文脈はチグハグになっているし、元のセリフが出るにあたってのキャラクターの感情の流れや物語といったものは当然踏みにじられている。ファンサービスのつもりなのか何なのかさっぱり理解できないけど、原作ファンであればあるほど、原作の良いセリフが文脈から引き剥がされて使われていること、この作品がそうした無神経なパッチワークで出来ていることがわかってしまう。これはつらい。
 直接関係ないけど、今回のキャラクターデザインは黒目の中のハイライト(白い部分)がやたらと大きくて、虚ろな表情に見える。そんな顔でツギハギの美辞麗句を言わされてるもんだから、ますますキャラクターに心が宿っていないように見えた。

 一方でオリジナル部分のセリフや話運びがどうなっているかというと、例えばこんな具合だ。
 のび太がタイムとりもちでモアを1頭捕まえる。その個体に対して「帰しても、このままじゃ絶滅するからかわいそう」と言うのだ。じゃあ人間のお前もいずれ絶滅するからかわいそうだよ、とツッコみたくなる。
 また、近い場面ではドラえもんが、タイムとりもちで昨日のおやつだったドラ焼きを取り寄せて食べる描写がある。ということは、この行為によって昨日のドラえもんはドラ焼きを食べそこねているはずなのだ。こういう因果のパラドックスは原作でもよく登場するネタで、ちょっと気の利いたひとネタになると思うのだが、なんとここでは昨日については言及されず、ただ「ドラ焼きを取り寄せて食べる」だけの場面なのだ。全く意図がわからなくて驚いた。
 どうもこの作り手はこういう理屈のあるギャグを面白いと思っておらず(または子供には伝わらないと思っていて)、ドラえもんが顔を赤らめたりオーバーなリアクションをする事の方が面白いと思っているようだ。

 あえて良いところも挙げると、クライマックス戦中盤の、地味なひみつ道具を戦略的に使うくだりは結構楽しい。特にコエカタマリンを二重に使うアイデアは戦略としても絵面としても面白かった。(ただしコエカタマリンを使うに至る手続きのシナリオは本当に酷い。)他の道具もだいたい見た目で機能がすぐわかるような道具が選ばれていて、話の腰を折らないようになっている。(ただしチアガール手袋は良くない。あれは本来勝敗を決してしまう道具だから映画に出してはいけないし、この作品ではただ女の子がポンポンを持ってフレーフレーと言ってたら面白い、以上の意味が全く無い使われ方であんまりだ。)ただ本作でそうしたひみつ道具使いの面白さを出す必然性は無いので、そこは次作に受け継がれて結実していると思う。

 ほかの冒険部分の話については、特に書きたいことがない。宇宙パワーとか生命エネルギーとかもうちょっとほかに何か無かったのかって設定が出てくる時点で、話について真面目に考える気力を削がれてしまった。ただ、未来の科学をもってしても神秘としか言いようのないものに対して科学者がどう対峙するのか、という話があれば興味深くなりそうだと思ったが、そんなテーマは特に浮かび上がることもなかった。
 金魚鉢みたいなところに悪者をギュウギュウに閉じ込めるの人魚大海戦でもやってたけど、監督のフェチなのだろうか…とかどうでもいいことは浮かび上がった。


 のび助ゲストキャラ化の件が目立ちすぎて忘れかけていたけど、冒頭の“カブ太”をめぐる件もまた、ドラえもんシリーズにおいては禁じ手に踏み込んでいた。
 のび助は買ってやったカブトムシ・カブ太の面倒を見ると軽々しく宣言するのび太を「守れない約束はしないことだ」とたしなめる。それに何か感じ入った様子を見せた上でのび太は改めて「大事に育てる」と力強く約束し、指切りげんまんを交わすのだ。それを往来の人々が見て微笑み、なにやら感動的なシーンに見える。
 しかし、ドラえもん映画を見慣れた観客にとっては、これは「守れない約束」だとわかる。お決まりのメンバーと設定が動くことなく一話完結で進んでいく『ドラえもん』シリーズにおいては、のび太がペットを飼い始めても、そのままずっと飼われ続けるはずはないのだ。
 果たして映画のラストでカブ太は、虫カゴから外に出てしまい、のび太の机に佇んでいる。おそらくこのあと窓から逃げていってしまうのだろう。
 のび太が自分から面倒を見なくなったわけではないから、のび助との約束を破ったことにはならないし、普段のTVシリーズで毎回のび太の部屋に虫カゴが描かれるような面倒くさいことにもならない。でも、これで良いんだろうか。

 感動のようなものを見せかけるためにわざわざ交わされた空手形の約束、それがカブ太だ。ぼくにはこのラストカットに佇むカブ太が、この作品で“なかったこと”にされた色んなモノを、あたかも象徴しているように見えた。
 のび助少年の命がけの大冒険は、以降のシリーズに支障をきたさないよう“わすれん棒”の力でなかったことにされた。原作のキャラクターたちがそれぞれの経験から編み出した言葉のかけがえのなさは、無遠慮なパッチワークに引っ張り出されてなかったことにされた。笑いやカタルシスに必要とされなかった理屈。瞳の中に宿らなかった魂……。
 ぼくにとっては全部、大切にされてほしかった物ばかりだ。

 作り手の意図を超えて「捨て置かれた」感が強く宿ってしまったこのカブ太は、窓の外の大空に飛んでゆくこともなく、ただ行き場をなくして、上映時間が終わるのをひたすら待っているように見えた。 

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