『のび太のひみつ道具博物館』(2013)とドラえもんがひみつ道具でない理由【映画ドラえもん感想】
2013年公開『映画ドラえもん のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)』
2024年1月13日 AmazonPrimeVideoにて鑑賞。
全編が能天気な調子で進み、とにかく多幸感に溢れたエンタメ全振りの作品で、シリーズの他作品と一線を画している。未来が舞台ということもあり、テレビの誕生日1時間スペシャルに雰囲気が近い。
絶対的な敵役がいないのも異例で、最終的にゲストキャラ全員に好印象を持って終われる作りになってるところも多幸感を高めている。
特に、ペプラー、クルト、ジンジャーの隠し部屋での生活描写の楽しさは、後ろめたさや劣等感を共有した者同士の、年齢や社会的立場を超えた友情のような半疑似家族感にグッと来るものがあった。
常にカラフルでポップな画面、テンションが高く活き活きとしたレギュラーメンバーやゲストキャラクター、千秋の挿入歌(ドラミ声でなく、すごく良い)など、ご機嫌なムードを最初から最後まで維持している。
さらに、終わり方の切れ味とPerfumeの主題歌が持つ楽しいながらも穏やかなニュアンスによって、多幸感の先にある切なさのようなしみじみとした感慨にまで到達する。
そしてこの作品の大きな魅力としては、ドラえもんがちゃんとかわいく見えることも言っておきたい。目に涙をいっぱい貯めたり頬を赤らめたりといった表情よりも、コロコロと変わる誇張されすぎていない喜怒哀楽を見せてくれるところが愛らしいのだと思う。
楽しさや賑やかさに重点を置いた作品としては、そのテンションの高さもドラえもん映画にしてはそこまで上滑りになっていない印象で、結構好感が持てる。
ただあえて言うなら、ゲストキャラクターたちの成長をもう少し描いてくれたら良かったかなと思った。特にペプラー博士については問題ありまくりの生き方をしているキャラなので、せっかく感情移入できる分、あのままでいいのか?という引っ掛かりが残った。元気を取り戻したというだけでなくて、例えばクルトとジンジャー以外の他者との関係を新しく築くとか、ダメ人間なりのささやかな成長が見えた方が、物語としてぼく好みだった。
本作の珍しい特徴としては他に、基本設定への踏み込み度合いの大きさがある。のび太のもとにドラえもんが来たばかりの頃の思い出や、未来世界でのひみつ道具の扱いといった、『ドラえもん』というシリーズ全体の物語や設定に関わる新しい要素が劇中で付け加わるのは、結構な冒険だ。前年の『奇跡の島』でのび助の過去に踏み込んでいたのと、さらに翌年夏の『STAND BY MEドラえもん』と合わせて、3年連続で基本設定部分に踏み込んだ映画作品が作られている、ドラえもんの歴史の中でも特異な時期といえる。
ただ、本作で提示された“ひみつ道具”への扱いは、個人的にはかなり受け入れがたいものがある。
原作ファンであるぼくの解釈としては、ドラえもんが出す道具は未来世界ではありふれた日用品であり、あくまで現代世界から見て“ひみつ”の力を持つものだと思っていた。
原作短編およびテレビシリーズに、のび太が石器時代にタイムスリップし、マッチや缶詰など現代のテクノロジー製品を原始人相手に使って威張ろうとする『石器時代の王さまに』というエピソードがある。まさにこれと同じような構造で、ドラえもんが持っている道具はドラえもんの時代にとっては特別なものではないというのが、日常SF漫画としての『ドラえもん』の核となる設定だと考えていたのだ。
(ついでに言うと、原作漫画で“ひみつ道具”という名称が出てきたことは無いように記憶している。“ひみつ道具”は作中世界にある言葉ではなく、『ドラえもん』という作品を外から見た時の言葉という印象が強い。)
ところが本作では、未来世界においても“ひみつ道具”という名称で呼ばれている道具群が存在し、それは我々が使っているマッチや缶詰といった道具の延長線上にあるものではなく、あくまで“ひみつ道具”というカテゴリの独立した歴史があることになっている。
この設定が自分にとっては解釈違いな上に、あまり魅力的に思えなかった。それこそ石器時代から進化していった我々の技術の延長線上に、タケコプターやどこでもドアがごく普通に存在している世界の方がワクワクすると思うのだ。
ところで、自分のように〈ひみつ道具 = 未来で使われている道具の総称〉と捉える立場からすると、本来ならドラえもんも“子守用ロボット”という一種のひみつ道具だ。しかし、当然ながらのび太や読者にとって、ドラえもんはただの道具ではない。それではドラえもんとひみつ道具との違いは何なのか。
それは、のび太と過ごした時間や出来事の積み重ねだと思う。人格らしきもののある道具や、感情を交わすことのできるロボット型の道具は他にもあるが、それらとドラえもんの本質的な違いは、のび太と長い間一緒にいるということ、ただそれだけである。あくまでのび太や読者にとっての主観的な認識によって、ドラえもんは“ひみつ道具「子守用ロボット」”ではなく“ドラえもん”になっているのではないか。
本作で描かれる過去の重要な、しかしとりとめのないエピソードは、まさに“のび太と過ごした時間、出来事の積み重ね”であり、ドラえもんがひみつ道具ではない理由そのものだ。ひみつ道具をテーマにした本作で今回のようなエピソードが描かれるのは、単にのび太とドラえもんの絆で感動させるためだけに生まれた描写ではなく、テーマ上必然的なものであるということが、久しぶりに鑑賞して理解できた。
というわけで、ひみつ道具という概念の解釈には大きな違和感が残るが、ドラえもんというキャラクターや『ドラえもん』という物語の本質に触れているという点では大いに納得できるという、自分にとってアンビバレントな位置づけとなる作品だった。