映画感想『The Son/息子』
3月28日鑑賞
※内容のネタバレを含みます
『ファーザー』と通して見る限りフローリアン・ゼレールの映画作品は、人の「できない」と向き合う作品であることが一貫している。
多くの人が納得できる“理想的な物語”なるものは、主人公が「できないことができるようになる」、あるいは「できないことではなく、できることを見つける」というものだろう。しかし、現実には「できない」まま絶対「できる」になり得ないこともあるし、「できる」よりも「できない」が人生を覆い尽くしてしまう人もいる。
老化はその一番わかりやすい例である。前作『ファーザー』で、認知症という不可逆な現象によって「できない」が増えていく主人公は、当然「できる」になることはない。さらには、人生の中で過ぎ去っていった全てのことをもう二度と掴むことはできないという、究極の「できない」に直面する。老いという誰にでも訪れることを通して、この世には絶対的な「できない」があり、それは誰しもが向き合うことになるものだと教えてくれる。
普遍的な「できない」が描かれる『ファーザー』に対して、『The Son』で描かれる「できない」は、もっと個人的なものである。
内面的な(しかし、外部からはうつや不登校や思春期という言葉で無神経に言い表せてしまう)悩みの真っ只中で身動きが取れなくなっている息子は、数々の「できない」を父親に、そして観客に訴えてくる。「学校に行くことができない」「みんなが普通にしていることができない」「僕には何もできない」。
しかし、「学校に行かない選択肢はない」と諭す父親は、息子の「できない」を一つも受け止めようとしない。代わりに「赤ん坊の面倒を見ることができる」「退院して家で暮らすことができる」という「できる」宣言は全て受け入れてしまう。彼は「できないことができるようになる」「できることを見つける」という“理想的な物語”に囚われているからである。妻に「(悪い面にばかり目を向けるのは)悪い面を全く見ようとしないよりよっぽどマシよ」と言われるのは、そういうことだ。
そんな父親の想定する“理想的な物語”に、息子は欺きという形でしか沿うことはできない。何事にも理路整然とした説明を求める父親に対して、それらしい物語をわざわざでっち上げてみたりもする。まるで観客のニーズに応えて作られた、因果関係のわかりやすい映画のように。何度も無理な形で自分を折り曲げ、それが破綻するのを繰り返すうちに、息子の軋みはどんどん増幅していく。
「子供に理想を押し付ける父親」という観客にとって感情移入の対象になりにくい人物がこの映画で主人公たり得ているのは、観客もまた父親のように、「できない」を超克した“理想的な物語”を望んでしまうからである。息子は学校に行くことが「できる」ようになるんじゃないか。息子はその繊細さを活かして価値ある大人になることが「できる」んじゃないか。息子はなんとか生きていくことが「できる」んじゃないか……。この映画に考えられるいくつものハッピーエンド(=「できる」の押し付け)すべてに、息子は「できない」と回答する……。
この結末を受け入れろという方が無理だろう。だから父親は、そして観客は夢想する。色々なことができるようになった、立派な大人・父親になることができた、生きることができた、息子の姿を。このあまりにも都合のいい偽りのハッピーエンドは、ある程度は観客が求める理想の結末そのものだ。あれだけ衝撃的に響いた銃声の存在すらしばらく無かったことにしてしまえるほど、 “理想的な物語”の引力は強い。『ファーザー』で主人公の歪んだ認識を観客と同化してみせた手法が、ここに来てより残酷な形で再演される。
しかしこの残酷さは、ある種の救いでもあると思った。父親と観客がこの映画の結末に絶望すればするほど、息子の「できない」の重みは増す。現実世界に存在する「できない」は、「こうすればできる/できたのに」という“理想的な物語”の裏返しでしかないかのように扱われる。しかし、実際に「できない」ままこの世を去っていった人たちがいる以上、その人にとって「できない」は「できない」でしかない。彼らの死を他の誰かの生のための教訓物語にしてしまう前に、彼らが残した「できない」を「できない」のまま受け止める責任が、世界にはあるんじゃないか。
そしてこの映画の良いところは、それでもなお父親が“理想的な物語”に縛られたままであり、 “反省”したり“成長”したりしないところだ。父親もまた息子の「できない」を受け止めることが「できない」まま映画は終幕を迎える。息子と同様に父親の「できない」も本人にとっては(少なくとも映画の時間内では)絶対的かつ不可逆なものだった。「できない」を超克できずに終わる人生も、続いていく人生も、確かにこの世に存在する。その悲しさやどうしようもなさに、本当は差など無いのかもしれない。