宮村優子の音楽がすごい!

 昨年後半ごろ、ぼくが取り憑かれたようにハマっていて、知人に会うごとに熱弁していた音楽のトピックがある。
 声優・宮村優子の歌手活動についてである。
 
 90年代後半を中心に歌手としても活動していた宮村優子だけど、特に98~99年に出したCD4作品、『魂』『産休~Thank You~』『鶯嬢』『大四喜』がすごい。それ以前の音楽作品はかわいらしいヘタウマな歌声のアイドル声優楽曲として比較的無難に楽しめるけど、ミニアルバム『魂』を皮切りに、その個性と柔軟性が爆発したはっきり言って異常な作品を、世紀末の日本にドカンと投下している。
 ぼく自身は、彼女の人となりや来歴、『エヴァンゲリオン』シリーズ以外の本職の声優活動などについてはそこまで明るくなく、この音楽活動への関心をもって宮村優子ファンとはいえないかもしれない。それでもこれらの音源や周辺情報から浮かび上がってくる彼女のキャラクターや音楽的な異質さ、なにより唯一無二としか言いようがない声質と歌唱表現能力には強く惹かれるものがあり、ハマってから今に至るまで何度もこの4枚を愛聴している。
 サブスクリプション配信は今のところ行われていないのでやや入手のハードルは高いかもしれないけど、もう少しこれらの作品の凄みが知れ渡ってほしいと思う。とりあえずこの4枚についてまずはざっくり説明したい。


『魂』『産休~Thank You~』『鶯嬢』『大四喜』

 1998年3月発売のミニアルバム『魂』。それまでも鈴木慶一(2ndアルバム『不意打ち』収録「Un NicodemeII~まぬけなおじさん」)や大槻ケンヂ(ミニアルバム『スペースケンカ番長』収録「電光合体レゴーマー」)の楽曲提供といったただらなぬ予兆は見せていたけど、なにせこのアルバムは1曲目「Mother」から平沢進の提供曲になっていて、開始早々平沢サウンドが再生されて衝撃を受ける。全6曲のうちに平沢進が作詞作曲で2曲、大槻ケンヂ作詞・野村義男作曲というよくわからない豪華な組み合わせの1曲、宮村優子自身の作詞(作詞クレジットは「みやむらゆうこ」名義)が2曲含まれているバランスも注目したい。
 大槻ケンヂ/野村義男の提供曲「タマシー」がとにかく名曲で、ぼくが最初に聴いた宮村優子の曲でもある。この曲については後ほど詳述したい。

 続いて同年7月発売の3rdフルアルバム『産休~Thank You~』。テクノ・ニューウェイブ色が強かった前作からは打って変わって、こちらは全編渋谷系サウンドが特徴となっている。というかピチカートファイヴ周りの人がガッツリ関わったピチカートファイヴ・サウンドなアルバムで、ピチカート好きのぼくとしては前作とは違った方向でこちらも大好物だった。
 大部分の曲の編曲と一部曲の作曲はピチカートファイヴ脱退後の高浪敬太郎によるもので、彼がアルバムのサウンド・プロデューサーということになっているらしい。また、小西康陽も「ママ・トールド・ミー」「キス」の2曲で作詞・作曲・編曲すべてを担当して、作家性の強いいかにもな小西曲を提供している。この二人が参加しているとはいえ、どの曲も野宮真貴が歌うことはちょっと想像しづらく、宮村優子の個性とピチカートファイヴ的な音楽性がどちらも負けずに存在感を主張しているといえる。
 個人的に一番刺さったトラックが「チュッ・チュッ・チュッ」。軽快で明朗な曲調、あっけらかんとしながらも切ない歌詞、甘ったるくかわいらしい歌声が組み合わさって、多幸感と虚無感がないまぜになったような、まさしく渋谷系特有の感慨が特大で襲ってきて、聴くたびに胸をかきむしられるような何とも言えない思いになってしまう。この曲の作編曲のCHiBUNという人は調べてみると元ポータブル・ロックの鈴木智文の別名義とのことで、やはり野宮真貴ラインの人だった。
 アルバムトータルでの感触の統一感という意味では一番の作品で、とても聴き心地が良く、実際に聴いている回数も一番多いと思う。渋谷系好きの人でも未聴の人は多いと思うけど、間違いなくマストな一枚だと思うのでぜひ聴いてほしい。

 翌1999年5月発売のミニアルバム『鶯嬢』。全6トラック中後半はリミックスやオリジナルカラオケが収録されているので、実質的には3曲入りのシングルである。しかしこの3曲の作詞陣が1曲目から順にみやむらゆうこ、大槻ケンヂ、戸川純となっていて、なんとなく宮村優子の音楽活動のコアな部分が揃ったメンツという感じがする。
 特筆すべきはやはり戸川純による3曲目「女性的な、あまりに女性的な」だろう。ハードな物語を一人称視点の呆然としたニュアンスも込みでポエトリーリーディングする表現力はさすが声優といった力量だし、深刻な語りに終始するかと思いきやあっけらかんとしたオチをつける、宮村優子らしい軽さもかえってスパイスになっている。本人の作詞や文章からも窺えることだけど、宮村優子は劇的な情動に完全には身を預けず、どこかクールな距離感を保っているように感じられ、そこが彼女独自の魅力だと思える。
 ついでに言うと、1曲目「女のGo!」(ビゼーのオペラ『カルメン』より「ハバネラ」に日本語詞をつけている)、2曲目「~ed(受動態)」(「私は恥の女」というフレーズが印象的に使われる)ともにどこか戸川純「蛹化の女」を思わせる曲でもあり、全曲通して戸川純チックな世界観に支配された1枚にも思える。

 そして1999年8月に出た4thフルアルバム『大四喜』。これが宮村優子最後のオリジナル・アルバム。楽曲提供陣は前作に引き続き参加の戸川純が2曲作詞、毎度おなじみ大槻ケンヂが1曲作詞、さらに平沢進の曲も1曲あり、これまでの集大成感がある。その他、演奏でジッタリン・ジンごと参加している破矢ジンタの曲も2曲収録されている。
 これはとにかく雑多なアルバムで、基本的にはバンドサウンドが賑やかな明るく楽しい作品になっている。中でも序盤の、作詞:みやむらゆうこ/作曲:長谷川智樹(個人的にはアニメ『さよなら絶望先生』劇伴やドレスコーズのサポートといった活躍が印象深い)の「ノストラちゃんまつり」、作詞:大槻ケンヂ/作曲:関口和之(サザンオールスターズ)というこれまた謎に豪華布陣の「名探偵は人生を答えず」、平沢進の「Ruktun or Die」あたりは、ストレートに元気が出るお気に入りの曲。
 一方、歌詞の面ではギョッとさせる部分が多々あるのも特徴で、たとえば戸川純の「12才の旗」では初潮が、カステラのカバー(後述)「途中でねるな」では避妊の拒否がわりと直接的に歌詞のテーマになっている曲で度肝を抜かれた。どうやらアルバムコンセプトが「おめでたい」というキーワードだったらしく(参照→戸川純のインタビュー)、確かにそういう「おめでた」さもあるか…とそこそこ納得したけど、それにしてもチャレンジングな内容だ。
 99年8月に出した、ノストラダムスをおちょくった曲で始まるカオスでチャレンジングなこのアルバムが今のところ最後の作品になっているというところも含め、宮村優子の歌手活動の面白さが詰まった濃厚なアルバムだ。


大槻ケンヂとの親和性

 ぼくが宮村優子の音楽を語る上で、ごく個人的にどうしても中心になってくるのが、大槻ケンヂとの関係である。そろそろ大槻ケンヂについてのまとまった記事も書かなきゃいけないと思うくらい自分の趣味嗜好および精神の中心にいるのがオーケンこと大槻ケンヂなのだけれど、とにかく宮村優子とオーケンの相性はいい。
 長いキャリアの中で様々なアーティストへ楽曲提供している大槻ケンヂにおいても、1アーティストに4曲というのはたぶん彼の最多記録だと思う。それに加えて、1997年の筋肉少女帯シングル「221B戦記」の曲中の語りパートでも彼女を起用しているので、事実上5曲もコラボ曲があることになる。
 中でもやはり『魂』収録の「タマシー」は名曲中の名曲で、自分にとっては大槻ケンヂの楽曲提供どころか作詞楽曲全体の中でもトップ10に入るかもしれないくらい大好きな曲だ。

エジソンの作った霊界ラジオがキャッチしたビジョン
あの世の少女がこの世の少年に再び出会うために
空手の修行に励んでいるわ

「タマシー」作詞:大槻ケンヂ

という冒頭の語りが見事に曲全体のストーリーをそのまんま要約しているこの曲は、荒唐無稽でコミカルだけど、同時に無条件でガッツが湧いてくる陽性のパワーに満ちた一曲だ。
 何を隠そうこの歌詞は明らかに当時の大槻ケンヂ自身の精神状態を(ことによったら筋肉少女帯の歌詞以上にストレートに)反映している。精神の病をわずらい死の淵をさまよったオーケンは、柄にもなく格闘技を習い始めるなどしてなんとか回復へ向かう涙ぐましい努力を続けていたのだけれど、その境遇を冥界の少女に、しかもよりによって”アスカ”の声(オーケンは『エヴァ』TV版を放送終了後にビデオで一気見してしっかりハマっている)に託して「チェスト!チェスト!」と絶唱させているのである。そのメンタリティーが切実やら可笑しいやらで、その辺の背景を踏まえて聴くと笑いつつも落涙してしまう。
 こうした、自身のギリギリの精神状態を、彼岸と此岸を越境する狂気的な愛情の物語に重ねた詞は、筋肉少女帯90年代後期の代表曲「トゥルー・ロマンス」「機械」でも胸に迫ってくるけれど、それらの名曲と並べても引けを取らないくらい感動的な詞だと思う。むしろ、宮村優子の演技的な誇張した歌唱表現を挟むことで、〈精神状態〉からナイーブさやはにかみが削ぎ落されまさに〈魂〉がむき出しとなり、その気高さ、輝きが高純度で伝わってくるようだ。その〈魂〉はもちろん、『エヴァンゲリオン』シリーズ、特に旧劇におけるアスカのキャラクターとも密接に通じ合うものであるとも思う。
 『エヴァ』との呼応でいうなら、オーケンはこの曲の前後で筋肉少女帯を活動終了に向けて畳んでいる時期でもあり、『エヴァ』を終えた宮村優子と筋少を終えつつある大槻ケンヂというのも、ある種の異常な大プロジェクトを乗り越えた者同士としてどこかシンクロがあったのではないか、と想像できなくもない。

 また、さらに宮村優子と大槻ケンヂの親和性を感じられるのが、大槻ケンヂが全く関わっていない彼女自身の作詞による曲の中でも、どことなく〈オーケン感〉が漂いがちなところにある。例えば、新興宗教をテーマにした「あなたは神を信じますか」(『魂』収録)やノストラダムスの大予言をテーマにした「ノストラちゃんまつり」(『大四喜』収録)は、そのテーマ選びやユーモア感覚もさることながら、

強く生きろ
生き抜いてね
ワナの多いこの世界では
きっと又出会うこともあるでしょうから
今度会ったらその時は
必ず さあ
握手をしよう

「あなたは神を信じますか」作詞:みやむらゆうこ

世紀末と ビバ! さわいでも
とにかく ぼくらはまだ 生きてゆく
生きているかららー うたうんだ
あしたも がんばりましょー

「ノストラちゃんまつり」作詞:みやむらゆうこ

というそれぞれの詞の着地のさせ方から窺える、うさんくさいものを笑い飛ばす強かさと、不安や絶望をユーモアや健康さではね退けようという優しく熱いメッセージ性を併せ持ったスタンスは、大槻ケンヂの表現から感じられる精神性ととても似通った美しさをたたえている。プロデューサーとパフォーマーとしてではなく、同じ作家としての地平で近しく通じ合った二人だということが、よりいっそうこのコラボレーションを特別なものにしているとぼくは感じる。


カバー曲もすごい

 オリジナル楽曲だけでなく、カバー曲の選曲やアレンジも独特の魅力を放っている。

 ストレートに魅力的なトラックでいうと、『産休~Thank You~』収録の「La La Means I Love You」がある。「ララは愛の言葉」の邦題でも知られるThe Delfonicsのカバーだが、宮村優子自身が大胆に意訳して日本語で歌っている。

星から星へ 夜をこえる 天使 ハニームーン
ヒステリックな 月のうさぎ はねて キャミソール
ないものねだりの あたしをゆるしてねえ
会いたい
La La...means I love you
La La...means I love you

「La La Means I Love You」日本語詞:みやむらゆうこ

 男性視点で女性への恋心を歌った原曲を、ファンタジックな世界観のガーリーなラブソングに再構築しており、高浪敬太郎のアレンジも相まって非常にキュート。これを聴くと、TVシリーズの『新世紀エヴァンゲリオン』EDでエピソードによって異なる歌手や声優がボーカルをとっていた「Fly me to the moon」カバーにアスカ=宮村優子バージョン※が無かったのを惜しく思ってしまう。

(※TV放送では使われなかったが、サウンドトラックアルバム『NEON GENESIS EVANGELION ADDITION』に宮村優子歌唱のTVサイズ音源が収録されている。ちなみに8話などで流れたバージョンはよく似た声質の”Aya”のボーカルなので注意!)

 しかし、そんなうっとりと聞き惚れてしまう「La La Means I Love You」の次のトラックに収録された「聖母たちのララバイ」カバーはその流れで聴くと椅子からズコッと転げ落ちてしまう衝撃作になっている。誰もが知る岩崎宏美の同曲を、投げやりなまでの崩した歌唱でパンキッシュに歌い上げている。こればかりは音源をどうにかして聴いてほしいとしか言いようがないけど、ぼくは大げさでなくシド・ヴィシャス版の「マイ・ウェイ」、あるいは大槻ケンヂの「天使たちのシーン」を想起した。

 この対照的とも言える「La La Means I Love You」「聖母たちのララバイ」の流れだけれど、どちらも原曲が前提としている〈女性〉や〈母性〉という概念に対して一種のアンチテーゼを唱えようとしている点で通じ合っているようにも思えてくる。
 この時期の宮村優子作品に通底するモチーフとしての〈母〉は、それこそ『魂』の1曲目「Mother」から様々な形で時に抽象的に、時にドラマチックに扱われていて、生物的に女性であるということの、出来合いの概念には収まらない多面性や身も蓋も無さについては何度も歌われている。彼女の表現からことさらジェンダー論的な先進性を見いだすのが妥当かどうかはわからないけれど、〈声〉と〈女性/男性らしさ〉との関連を常に意識せざるを得ない声優という立場ならではの、スリリングで捻りの利いた歌唱表現の世界がそこにあるように思う。

 女性であること、母になることの身も蓋も無さ、で言えばある意味その究極とも言える問題作が先にも紹介した「途中でねるな」(『大四喜』収録)になるだろうけど、これは「カステラ」というバンドのカバー。カステラは現在TOMOVSKYとして活動している大木知之がフロントマンを務めていた1986~93年のバンドだけど、このマニアックなセレクトがなんとも不思議だ。
 さらにマニアックなのが、同じく『大四喜』収録の「山道と観世音」で、これは筋肉少女帯初期メンバー及び再結成後のサポートメンバーとして知られるピアニスト・三柴江戸蔵が筋少加入前に組んでいたインディーズバンド、新東京正義乃士が原曲である。筋少やたまを輩出した伝説的インディーズレーベル・ナゴムレコードのバンドとはいえ、ナゴムの中でも著名とは言い難いこのバンドのこの曲をカバーしているのは、『産休~Thank you』収録の2曲とは全く違い、知られざるカルト曲の発掘といった意味合いを持っている。ついでに言うと、カステラもナゴムレコード出身らしい(音源はコンピレーションアルバムに参加した1曲しか無いようだが)ので、『大四喜』は「名探偵は人生を答えず」の大槻ケンヂと合わせてナゴム組がなぜか集結しているアルバムになっている。

 カバー曲でも決して無難になることをよしとせず、むしろ再構築や発掘といった尖ったスタンスがより強く現われているのが、宮村優子作品の底知れない凄みの1つだ。


なぜこんなことになっているのか

 それにしても不思議なのが、今まで見てきたような参加・提供陣の顔ぶれである。テクノニューウェーブから渋谷系、果てはナゴム系に至るまで、「なぜそこから?!」と言いたくなるような人脈の豪華さ・奇妙さについては、宮村優子本人の好みもあるのだろうが(戸川純は彼女が元々愛聴していたそう)、当時の様々な音楽シーンの交錯点としてもいろいろ興味深く考えられるだろう。
 CDのクレジットなどを辿っていった結果、これは当時を知るわけではないぼく個人の、情報源がWikipedia中心なこともあってあまり自信の無い考察になるけど、彼女の所属していたレーベル「フライングドッグ」にひとつのカギがあるのではないかと思った。

 「フライングドッグ」の沿革はザッと見るだけでも非常に紆余曲折が多い。当初はビクター内のレーベルとして1976年に始まり、所属アーティストにはPANTA、野宮真貴、ハルメンズといった名前が並んでおり、今現在のそれぞれのイメージから見ると不思議なメンツにも思うのだけど、『ニューミュージックマガジン』(現『ミュージック・マガジン』)編集長が立ち上げに噛んでいるようで、そう考えると音楽批評的な場と相性の良いアーティストが並んでいるという共通点も見えなくもない。
 そこから時代は飛び、2000年前後は「m-serve(エムサ)」という名称が使われだしたようだ。当時の宮村優子は正確にはm-serve所属のアーティストとなっていて、その時期は当初のレーベルとしてのフライングドッグは稼働しておらず、元々ビクターが手がけていたアニメ関連事業にこのm-serveという名称が使われるようになったらしい。立ち上げ時の「フライングドッグ」と「m-serve」との関係は今一つわからなかったけど、このm-serveから後続する形で2007年に出来たアニメ系の新レーベルとして「FlyingDog」という名称が受け継がれているのを見ると、おそらく人脈などで重なり合う部分があり、あながち立ち上げ時と全く無関係の組織でもないのだろうと思う。宮村優子の関連人物の中でも少なくとも、『産休~Thank you』に参加した野宮真貴周りの面々や、鈴木慶一や戸川純といったニューウェイブ周辺の面々は、立ち上げ時の「フライングドッグ」からの繋がりがあったのかもしれない。
 現在は「株式会社フライングドッグ」として独立し、すっかりアニメ・声優専門の音楽事業を行っているようだが、そうしたアニメカルチャー一色の現フライングドッグと、PANTAらが在籍していた批評的でラディカルな特性の見えるかつてのフライングドッグという、水と油のような二種類の音楽シーンが、宮村優子を介して接続されているようにも思え、非常に興味深い。

 以上、あやふやな情報でわかるようなわかんないようなコタツ記事みたいなことを書いてしまった。いかがでしたか?
 とはいえ、ぼくのボンヤリした考察があながち的外れじゃないとも思うのは、宮村優子の活動における音楽性そのものが、アニメカルチャーと音楽批評シーンをちょうど良く合体させたような、ハイブリッドな感触を持っているように感じざるを得ないからだ。それは人脈的な幅広さもそうだし、表現の内容自体も、むき出しの魂を表現するような〈アニメ的〉感性と、情動から一定の距離を取るような〈批評的〉感性が両立していることも、やや乱暴な紐付け方かもしれないけど、そういうシーンの交錯点ならではのバランス感覚なのかもしれないと思ったりする。


 とにかく、宮村優子のあまり長くない音楽活動の中でも、この98~99年という非常に短い期間に発表された以上の作品は、埋もれるにはあまりにも惜しい、ハイブリッドな魅力と日本音楽史の1つの特異点としての可能性を秘めた、マスターピースな音楽であるとぼくは思う。
 それこそミュージック・マガジンが形成した論調がそうであるように、音楽の史観はどのアーティストやプロジェクトを中心に置くかに依存した不定形なものだと思うけど、宮村優子を中心に置く史観がこの世のどこかにあってもいいような気さえしてくる。

 そんな大仰なことを考えなくたって、宮村優子の作品が、バラエティ豊かでスリリングな音楽体験をもたらしてくれるのは間違いない。彼女やアニメ・声優カルチャーにあまり詳しくない人でも、一度は触れてもらいたい作品群だ。


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