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『境界線の向こう側』

彼女は窓の外を見つめながら、コーヒーカップを手に持っていた。雨が窓ガラスを伝い、ゆっくりと流れ落ちる。その音が、彼女の心の中のざわめきをかき消してくれるかのようだった。彼女の名前は美咲。30代半ばの女性で、結婚してからもう10年近くが経っていた。夫とは特に大きな問題もなく、平穏な日々を送っていた。しかし、その平穏は、ある出会いによって微妙に揺らぎ始めていた。

半年前、彼女は健太という男性と知り合った。健太も既婚者で、妻がいた。二人は趣味が合い、すぐに仲良くなった。最初はただの友達として、一緒に食事をしたり、映画を見たりしていた。しかし、ある日を境に、その関係は少しずつ変化していった。

「美咲、俺たちって、こんな風にずっと友達でいられるよね?」

ある夜、バーのカウンターで健太がそう言った。彼の目は真剣で、その言葉には何か深い意味が込められているように感じた。美咲は少し戸惑いながらも、うなずいた。

「うん、ずっと友達でいたいね」

しかし、その言葉とは裏腹に、二人の間には目に見えない引力が働いていた。ある夜、健太が彼女を強く抱きしめた時、美咲はその引力に抗えなかった。彼女は自分が何をしているのかわかっていた。でも、止められなかった。

「これは間違っている」
そう思いつつも、彼女は健太の腕の中に身を委ねた。


それ以来、二人は「セフレ」という関係になった。お互いに既婚者であり、家庭を壊すつもりはない。それでも、彼らはその関係を続けていた。健太にとって、それはただの「友達以上の関係」でしかなかった。彼は過去にも何人かの女性と同様の関係を持ち、それでも友達として続いてきた。彼にとって、肉体関係は友情を深めるための一つの手段でしかなかった。

しかし、美咲にとっては違った。彼女はこれまで夫以外の男性と関係を持ったことがなかった。健太との関係は、彼女にとって初めての「不貞」だった。彼女は自分が健太に対して抱く感情に戸惑っていた。友情のはずが、次第に愛情に変わっていくような気がした。彼女は健太に執着し、嫉妬し、罪悪感に苛まれた。

「健太、私のこと……どう思ってるの?」
ある日、美咲はふとそう尋ねた。

健太は少し考え込んでから答えた。
「美咲は俺にとって、大切な友達だよ。生活から切り離せない存在だって言っただろう?それに、俺たちはこれからもずっと友達でいられると思う」

彼の言葉は優しかったが、美咲にはそれがどこか空虚に聞こえた。彼女は健太がセックスの最中に「俺を見て」と囁く言葉を思い出した。あの時、彼は本当に彼女を求めていたのか、それともただの欲望だったのか。彼女にはわからなかった。


二人の関係は、美咲にとって次第に重荷になっていった。彼女は自分がこのまま健太にのめり込んでしまったら、本当に大切なものを失うかもしれないと感じ始めた。夫との関係、家庭、そして自分自身の良心。彼女は健太と話し合い、関係を見直すことにした。

「これからは、セックスは月に一回未満にしよう。それ以外の時は、普通の友達として過ごそう」

健太は彼女の提案に少し驚いたようだったが、すぐにうなずいた。
「わかった。美咲がそうしたいなら、それでいいよ」

それ以来、二人は以前のようにただの友達として過ごすようになった。LINEで毎日話し、趣味を楽しみ、時には一緒に食事をする。しかし、その関係は以前とは少し違っていた。美咲は健太との間に引かれた境界線を感じていた。それは彼女が自分自身に課したルールだった。


ある日、美咲は夫と一緒に夕食を食べていた。夫はいつも通り、仕事の話をしながら静かに食事をしていた。彼女はふと、自分が健太との関係を続けていることが夫に対してどれだけ裏切りになっているのかと考えた。彼女は夫を愛していた。しかし、健太との関係は彼女の心に深い傷を残していた。

「私、どうしてあんなことをしてしまったんだろう……」

彼女は自分自身に問いかけた。しかし、その答えは簡単には見つからなかった。彼女は健太との関係が「友情」なのか「愛情」なのか、自分でもわからなくなっていた。彼女は健太を友達として大切に思っていたが、それ以上に彼を求めてしまう自分がいた。


一方、健太は彼女との関係を冷静に見つめていた。彼にとって、美咲は確かに特別な存在だった。しかし、それは彼が過去に持った他の女性たちとの関係と大きく変わらなかった。彼は美咲を「友達」として大切に思っていたが、それ以上の感情は抱いていなかった。彼は美咲が自分に対して抱く感情に気づいていたが、それに対してどうすることもできなかった。

「美咲は俺にとって大切な友達だ。でも、それ以上にはなれない」

彼はそう思っていた。彼は美咲との関係がいつか終わることを覚悟していた。しかし、それでも彼女を失いたくはなかった。彼は彼女との友情を守りたかった。


時が経つにつれ、美咲は次第に健太との関係に折り合いをつけ始めた。彼女は自分が健太に対して抱く感情をコントロールすることを学んだ。彼女は健太を友達として大切に思いながらも、それ以上の感情を抱かないように自分に言い聞かせた。

「これでいいんだ。これが私たちの関係なんだ」

彼女はそう思うことで、自分自身を納得させようとした。しかし、時折、彼女の心にはまだ小さな揺らぎが残っていた。彼女は健太との関係が本当に「友情」でいられるのか、それともいつかまた境界線を越えてしまうのか、自分でもわからなかった。


物語の最後、美咲は窓の外を見つめながら、ふと健太との関係を振り返った。彼女は自分がこれからどうしたいのか、まだ答えを見つけられずにいた。しかし、一つだけ確かなことがあった。彼女は健太を友達として大切に思っていた。それ以上でも、それ以下でもない。彼女はその境界線を守り続けることを決意した。

「これが私たちの関係なんだ」

彼女はそうつぶやき、コーヒーカップを手に取った。窓の外では、雨がまだ静かに降り続けていた。

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