「イノセンス4Kリマスター」ゴーストの有無は存在に影響するのか
2/28から押井守監督の「ghost in the shell」と「イノセンス」の4Kリマスターが限定公開となりました。まぁ、私にとっては思い出深い、というよりか、ちょっとこじらせた映画なのです。
この「イノセンス」という映画、幼少期に雑誌で見かけた際には(幼かったせいで)ひたすら怖くて仕方なかったのですが、勇気を出して高校入るか入らないかぐらいの年齢のときに深夜放送で見たわけです。
(昔は深夜2時くらいに、ちょっとエグめの映画をよくやっていて、家族が寝静まったところをそっと抜け出して誰にも邪魔されずに一人で見るのが好きでした。その時間帯にやっていたフランス映画とかは、今はTSUTAYAにも置いていないので、そっと思い出すしかないようです。)
まぁ、どハマりしましてね。
何回見たかわからないし、押井守の別の映画も漁るようになるし、引用されているリラダンの未来のイブもミルトンの失楽園もロクス・ソルスも能の本も読み漁って(そのまま能の鑑賞やら謡曲を読み漁ったりやらもしはじめまして)、DVD買って、サントラ借りて、なんなら就職のことを考えずに済むなら哲学科に行きたいよなぁ、なんて思ったりね、というか、社会人になってからは、通信で哲学を学びに行きたいと、時々思うくらいには、拗らせたわけです。いいなぁ、都会の人は。映画館でこの映画を見れたんだぜ? こちとら半径百キロ以内に映画館なんてないんだぜ? なんて思ってました。
ところが、二十年が経ちまして、なんと映画館で再びこの映画を上映する、と。
ならば、と、有給取って行きましたよ。
老若男女、ほぼ満員で、ちょっとびっくりしましたよ。いや、だって、いくら有名でコアなファンがいる、って言っても二十年前のアニメですよ? しかも、ほぼオッサンと人形しかでてきませんよ? ガブリエルかわいいけど。ガブリエルかわいいけど。ガブリエルかわいいけど。
しかし、私と同じような(何なら私より熱い)ファンはいるようで、上映が終わった瞬間に前の席の人が、いかにこの映画が素晴らしいかを隣の人に語りだし、なんなら劇場前のポスターの記念写真を撮りに行っていました。
前置きが長くなりましたね。
映画の話をしましょう。
私がこの映画にハマってしまった理由は、押井監督の好きなものを全部詰め込んだスクラップブック要素(ハンス・ベルメールの球体人形とか、原作にはない九龍城砦まんまの世界観とか、能とか、ガブリエルとかガブリエルとかガブリエルとか)もあるのだけれど、当時(いや、今も?)の私は人間と人形の違いが酷く曖昧に思えていたのです。
魂が破壊されている、物理的機能としての生命だけを持った人間と、そもそも魂を持たない人形に違いはあるのか。
後に「普通の人間と全く同じであるが、我々の意識にのぼってくる感覚意識やそれにともなう経験(クオリア)を全く持っていない存在(by Wikipedia先生)」という意味を持つ「哲学ゾンビ」という言葉を知るようになるわけですが、どうも、この2つの明確な違いを感じ取ることができなかったわけです。
それはこの映画におけるキムの言う「人間が簡単な仕掛けと物質に還元されてしまうのではないかという恐怖」にほかならないわけです。
若い頃はこの映画を、むしろ「人形と人間の違い、生物界と無生物界の違いを区別しない」ものとして回答を作ったもの、と思っていましたが、今回4Kで見ると、どうやら違うようです。
えぇ、人形と人間の違いをこの映画は明確に描き分けています。それは、まるでカラクリ人形のような動きをするキムや、表情があからさまにない少佐が、明らかに人間であり、「助けて」というセリフを呟いたハダリ人形が明らかに人形であることから見て取れます。「助けて」のセリフはハダリ人形が言っていたと思っていたのですが、映画館で聞くと、ラストシーンでちゃんと囚われていた女の子が吹き込んでいたのがわかるんですよね。人形は意識を持たないある種の完全さを持っているわけで、本当ならば、当然「助けて」なんてセリフを自分から話せるわけはないのです。言いたかったとしても。
人間は人形になりたくなかったし、人形は人間になりたくなかったのです。その2つは明らかに違うのであって、バトーの言うように「囁くのさ、俺のゴーストが」「ゴーストが信じられないような野郎にゃ狂気だの精神分裂だのって結構なもんもありゃしねぇ」わけです。
ghost in the shellでは、少佐もゴーストの存在を疑いだし、人形遣いと融合して、無限の意識の最果てである神になってしまいましたが。
さて、そんな少佐ですが、スタンドアロンの船の中で「生死去来棚頭傀儡一線断時落落磊磊」の言葉の通り、操り人形の糸が切れるように倒れて死を迎えます。スタンドアロンの船なので、ネットを通じて少佐のデータを元のネットの海に返したとは考えにくいでしょう。部長が言っていた「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだそうだ」という「幸福」の概念を失った少佐は、生死ももはや気にしている様子はありません。広大なネットのあちらこちらに遍在する少佐の同位体のことを考えれば、一体の自壊など何の影響もないのでしょう。
神でも人形でも犬でもない私たち人間は「孤独に歩め、悪をなさず、林の中の象のように」生きるほかないわけです。
しかし、そこに救いがないわけではなく、バトーの守護天使である少佐は「あなたがネットにアクセスする時私は必ずあなたの傍にいる」という福音を残していきます。大切な誰かが、死んだ後もいつもそばにいてくれる、どこかにいる、というのは過酷な世界で生きるのに、なんと心強いことでしょうか。
最後に少佐の声優をつとめていた田中敦子さんが、2024年の8月に亡くなりました。どこかの挨拶で「私は必ずあなたの傍にいる」という言葉を残してくれました。冥福をお祈りします。