まごころを君に/Air、何もしなければ、誰も傷つかないのか
新劇場版エヴァンゲリオンの新作が延期に延期を重ねて、さらにコロナで延期になった。
本当だったら、映画公開前の復習ということで、新劇場版エヴァンゲリオンを見よう! と金曜ロードショーにエヴァンゲリオンが放映される予定だったんだろうけど、延期になったので、ただ放映されるだけになった。
大学のときの同級生が「新劇新劇世の中がうるさいから、むしろ旧劇を見よう!」と言い出し、全部見るのはしんどいので、じゃあ映画版だけ、と言って、色んな意味で悪名高い「まごころを君に/Air」を見ることにした。
初めて見たときは、まだ10代だったから、中二病さながら、「これはこういう意味だ」と頭のいいふりをして解釈していたけれど、ミサトさんと同い年になってから見ると、素直に「わからん」と言えるようになった。
それはさておき、この物語、主人公シンジにしろ、父親のゲンドウにしろ、「なにかすると、誰かを傷つけてしまうから、ならいっそ何もしない方がいい」と言って、物事に向き合わないシーンがある。
結果当たり前として、シンジは何もしないことでアスカを鳥葬に処されるし、ゲンドウは何もしないことでシンジの入った初号機に首を切断されることになる。
全然話は変わるけれど、行政法の世界では、「やるべきことをやらなかった」ということ、つまり「不作為」が違法になることがある。この世界では、「何もしないこと」イコール「何もしないことを選択した」という行為とみなされるわけで、残念ながら、何かに向き合わず、選択をしないで逃げる、ということを許さない。
それは一般的な人生も一緒で、常に移ろう人生で「何も選択しない」ことはできない。
最終的に、シンジは、自分と他人の境をなくしてすべての人間を一つにすることで争いをなくすか、他人を傷つけることになっても他人と自分の境を作るかの二択を迫られて、結局後者を選ぶ。
選んだはいいけれど、その結果再会できたアスカの首を締めるシンジの心情は全然理解できないし、そんなシンジを見て「気持ち悪い」と言うアスカはいたってまともだし、というか全編通じてアスカは(というかアスカだけは)まともだと思う。
正直、エヴァは新劇場版なんてやらないで、これで終わりで良かったんじゃないかな、なんて思いつつ、本当は「他者と自分との境がわからない」方が、他人を傷つけるんだよな、と思ってウィスキーを飲んだ。