課題図書「分人思考」とサクちゃんからの問いを考える③〜どの分人が好き?〜
「課題図書「分人思考」をインサイド・ヘッドで考える」で①②書いてきたけど、③ではインサイド・ヘッドの話まったく出てこないのでタイトル変更。
サクちゃん聞いての1回目でこの本の話になった。
「中学生は全員読んだらいいと思うんだよね。」とのこと。
読む前になんとなく思っていた分人思考のイメージや、読了直後には「そうか?それほどか?」と思っていたのは正直な話。
ただそれ以降、私自身の在り方や自分の対人関係、ひいてはテレビや小説など自分とは関係ない人間関係や他人の自己表現についてもこの思考を持ち出して考えるようになった。
良い悪いのゼロヒャク、「あの人ってああいう人なんだ」というジャッジをしないというだけで余白が生まれ、可能性を諦めなくていいことに安心する。
うん、中学生全員読んだら良いと思うんだよね。
さて、その時にサクちゃんは「自分のどの分人が好きか考えてみて」「その分人でいられる時間を長くしていったらいいよ」ということも一緒に話していた。
①で書いた通り、私はインサイド・ヘッドのヨロコビやカナシミがそれぞれの分人だと思っていたので「そりゃあヨロコビでいる時に決まってるのでは。」と懐疑的だった。
改めて考える。
なるほど、意外と「考えないと」分からないものかもしれない。
私が好きな私の分人とは…?
当たり前に娘たちや夫と過ごしている時だと思っていたけど、娘たちといる時はまだ緊張感もあるしベキネバ思考が強い。
手を繋いでないと車に轢かれるかもしれないし、うっかり昼寝をしていたらベランダから落ちるかもしれない。
幸せを感じる瞬間も多いしもちろん大切でかけがえのない時間なんだけど、自分が心地よいかというと、そうなのかな?
そういう意味では夫と一緒にいる時の方が気楽だし(夫の身の安全や夜泣きの対応をする必要はない)、自分がしたい話ができる。けれど夫に対する甘えからイライラをぶつけたりもしてしまうから、夫と過ごす私の分人が一番好き!とは言い切れない。
その人を大切に思うことと、その人との間の分人が自分にとって好ましいものかというのはちょっと違うんだな。
この前の日曜日、安定のワンオペが待ち構える朝6時半。
昨晩は2人が交互に夜泣きをして、土曜の夜の自由時間が奪われた。
朝を迎えてもなんだかぐったり頭と身体が重く、ズゥンと気が沈む。
そんな時に限って(というか、きっと子どもたちなりに敏感に感じ取っているに違いない)娘たちの機嫌も悪い。
夫はいつも通り朝だろうが仕事をしている。隣の部屋にいて、この状況わかってるはずなのに。
朝からイライラさせてくれるじゃないか。
うわーん!と泣く次女を抱きしめながら、いや、これは次女のせいじゃない、と確信する。
私がイライラしてるから、娘たちも不安になる。
負の感情の伝播力は絶大である。
娘たちが少しでもイラっとすると私までイライラすることを思い出す。
ママがご機嫌なら子供たちはハッピー♡なんていうキレイゴトの育児論じゃなくて。
私が娘たちに見せる分人、という考え方はもちろん、それだけじゃなく、娘たちが私との間に構築する分人のそれぞれがポジティブであるためにどうしたら良いかなと捉える。いわんや夫に対してもをや。
うーん、文字にすると分かりづらいな。
なんていうか、矢印の応酬だと思っていたけれど、ベン図の捉え方に変わった、という感じかな?
(ベン図ってあれね。丸と丸が2つないし3つ、丸が重なってるところがアレで、というやつね。)
私が娘に対して優しくあらねば、そうでないと娘も私に優しい気持ちにはならないのだ、というのがこれまでの考え方捉え方。
息が詰まるし余裕がない時はやってられない。
それに対して、私が娘たちに対してネガティブな感情を見せてしまう分人であっていいのだろうか、というそもそもの自分への問いが生まれるし、そんな私の分人に対して娘たちがポジティブな分人を構築できるはずなくない?という冷静な自分に戻れる視点を持てたというか。
やっぱり、一度自分を俯瞰できる時間が、何かにつけて必要なのかもしれない。
私が一つの分人でできていないように、私の分人のひとつひとつが一辺倒でもないはず。
そして常に私も分人も変化していく。
ということは、私が心地よくいたいと思う分人をより心地よくしていく努力をすべきではないんだろうか。
夫と、娘と。
私にとって大切な人たちとの関係における私の分人が私にとって好ましいものであるように、たゆまぬ努力をしていこうじゃないか。