課題図書「分人思考」をインサイド・ヘッドで考える②~あなたのことぜーんぶ分かってる!はおこがましい~
続きです。
私に無数の分人があるように、私の知っている他者もまた「私に見せている分人である」ということを認識しなければいけない。
特に親しければ親しいほど、すべて知っている気になってしまう。
家族なんてまさにそう。
私と娘たちとは、まだお互いにお互いの分人の占める割合が非常に高い。
そこで相互に影響しあえるうちに、私は彼女たちにとってポジティブな存在でありたいと改めて感じた。
同時に、彼女たちが「バーカ!」と言ってみたりすっぽんぽんで踊り出すさま、保育園や習いごとで家とは違う姿を見せることを肯定的にフラットに捉えなくてはとも帯を締めなおした次第である。
私は今、彼女たちの日常を把握している。
朝何時に起きて何を着て何を食べ、誰と会い、どこへ行くのかを全て把握し、その大半を共に過ごしている。
きっと小学生になったタイミングから少しずつ、だんだん「知らない」が増えてくる。
それを受け入れられるだろうか、と今から不安だったりもする。
voicyで見聞きした先輩ママの「子どもたちは社会からの預かり物である」という言葉がふとよぎる。
なんて愛の無い冷たい人なんだろう。信じられない。まあ100歩譲って考え方としては理解できるとして、私はそっち派じゃないかな。
だなんて。
でも、無理やりにこうでも思っていないと、私は易々と娘たちにとって唯一無二の絶対神であろうとしてしまうだろう。
全部知ってたのに、知っていたいのに。
あなたのこと一番分かってるのは私なのに。私だけなのに。
私のindivisualな一神教的思考を娘たちに押し付けてしまいかねない。
家族以外に目を向けても同じこと。
私が苦手なあの人にも親友がいて、愛する人がいて、時にはファンがいる。
えー、信じられない、じゃあきっとあの人も性格悪いんだな。と思ってしまうのはあまりに未熟ということ。
個人の価値観の違いだという結論でふんわり着地させていたけど、彼や彼女が他では私に見せている分人とは違う分人を見せているのだから当然である、という考え方も新鮮だ。
もしかしたら、私に対してあの人は嫌な面しか見せられない関係を作ってしまっているのかも、という可能性は、途端に自己を顧みるきっかけになる。
自分だって過去に限らず現在も間違いと後悔を続けている。
自分ですら嫌だなと感じる一面だけを見た人が、自分のことをとんでもなく好きになってくれるかも、なんて無理な話じゃないの。
そんでもって自分でも「あれは良くないな」と改善を試み試行錯誤を繰り返す。
人は常に変化していく。(成長かどうかは分からない。)
インサイド・ヘッド2でシンパイ(この訳はあまり適切じゃないかなって思うんだよね。原語ではAnxiety。)とヨロコビたちが和解するのも、双方が劇的に変化したわけではない。
お互いの存在を認め、自分(たち)だけがライリーのことを分かっている!という傲慢な認識を改める。
それぞれが相手とライリーへの在り方と接し方を考える、つまり適切な分人を模索したってことなんじゃないだろうか。
本当の自分なんかいない。
あるのは対人関係の数だけある分人。