《匿名インタビューエッセイ》vol.03:シュークリーム
やりたいことも、なりたいものも、好きなことも、ない。
後悔のない人生を送る、それだけで十分じゃないか。
「嫌だ」という思いが原動力になった彼女の人生。
けれどそこに「逃げ」を感じず、どんな状況でも前を向くことの大切さを教えてくれた。
物心がついたときからずうっと、「ヤマダさまのご息女」だった。
使用人こそいなかったが、家には常に母を慕って通う行儀見習いのお姉さん方がおり、あの時代にピアノを買ってくれ、小学校には仕立てたワンピースやブーツを履いていった。そんな生活が当たり前だったが、もしかしたら無意識に少しずつ息苦しさを感じていたのかもしれない。
彼女のお家柄であれば「早々に良家へ嫁ぐこと」は容易だったはずだ。妙齢に縁談はなかったんですか?と聞くと「そんなのは嫌だな、って思ったんだよね」と笑う。「ヤマダさんとこのお嬢さま」とではなくて「私」と結婚してほしいと思ったのではないだろうか。その違和感を無視しなかったのは彼女の強さだ。
〇〇になりたい、という志はなかったが、大学にまで行った女性が選べる職業はそんなに多くなかった。親族の影響もあり、彼女は教員を目指すことになる。
女が、大学に通う。
それだけでも珍しかった当時に1年間の浪人生活を送らせてもらえたことのありがたみに、彼女は今でも感謝している。
晴れて大学生になったその年に、彼女は母親をガンで亡くす。闘病中に食べたいと言ってくれたのに大学生活に浮かれて作ってあげられなかったシュークリームに思いを馳せる暇もなく、女としての役割が彼女を待ち構えた。大学に通いながら、父と、兄と、高校生の弟の食事を用意し、弁当をつくり、洗濯や掃除などをした。
大学ではやっと「ヤマダさま」から解放されたように感じた。友人たちとの学生生活は楽しかったという。夫となる男性とはサークル活動で出会うが、結婚するのは大学を卒業してから3年後のことだ。
地元で教師となった彼女は、まさか働き出してまで「ヤマダさまのご息女」扱いされるとは思ってもおらず面食らった。教頭や校長が彼女のバックボーンを感じながら接してくる様子に彼女が耐えられなくなったのは、おそらく大学で彼女そのものを見てくれる人たちと多く接してきたからではないだろうか。
「私をここから連れ出して」という思いが、彼女を結婚へ向かわせた。
嫁ぎ先は、田舎の農家だった。
当時ですら死語だった「部落」という概念がナチュラルに使われる、現在でもなお田舎と表現して齟齬のない地域だ。
「もし母が生きていたら間違いなく結婚できなかったわ」と笑う彼女は、夫との結婚を悔いているのだろうか。
ほどなくして長女を出産した彼女は、田舎で暮らすということをまざまざと体感することになる。朝食の時間に何気なく話した些細なこと(例えば娘が便秘であるといったこと)を、昼過ぎのお散歩で行き違うおばあちゃんが知っている。驚愕し、戦慄した。間違いなく出所は義母なのだが、義母本人にもそのおばあちゃんにもまるで悪気はない。それがどれだけ厄介なことか。もう何も話すまい、そう心に決めた。
同じように嫁いできた近所のママとの息抜きもできたが、閉塞的な義両親との同居の育児期間は彼女にとって「あまり記憶のない」期間だった。
3人の子供に恵まれたことは嬉しいが、夫は仕事で忙しく家のことも子どものことも何も知らない。義両親のおかげで3人を育てられたのは事実だが、「それもあって何も言えなかった」13年間は、彼女には長すぎた。3人目を産んで以降、病名のつかない不調が彼女を蝕むようになった。メニエール病だと診断もされたが、今となっては分からない。鍼治療やお灸、足湯や気功、怪しい塩に手を出しそうになったこともあるし、泊りがけで東京の病院を訪ねたりもした。良くなっているような、なっていないような。そんな数年を過ごしたあと、彼女にとって何度目かの転機が訪れる。
夫の仕事で義実家を離れることができたのだ!!
狭いながらも家族5人だけの生活が始まり、新しい土地でのワンオペ3人育児は大変だったが既に末っ子は10歳を超えていた。身体の不調は嘘のように回復していった。
夫は相変わらず忙しく、子どもたちにはお金がかかるようになる。目の前の日常を精一杯にこなしていたら、いつの間にか育児を終えていた。
今度は夫と2人で田舎へ戻った。義両親と夫との4人の生活が始まって初めて「20年前の私のつらさを夫に理解してもらえた」のだという。時代も変わり朝食も夕食も休日も一緒に過ごせるようになった夫とは、通じる話が多くなり、同士のような気持ちも芽生えた。
しかしながら、田舎の、しかも農作業をしている老人というのは元気だ。私たち夫婦が本当の意味で自由に生きられるのは果たして何年先なんだろう。
そう思っていた矢先に訪れたのは子どもたちの出産ラッシュだ。
大切な娘たちに私と同じ思いをさせるもんか。
里帰り出産するには不便すぎるほど田舎なので、という表向きの理由で、彼女が娘たちの家に居候して産後のお世話をすることにした。娘たちの夫はみな多忙であまり家にいない。彼女自身は母に孫を見せてやることはできなかったが、母がいたらやってほしかったことは山ほどある。産後に無理をしてしまった自分が何よりの証拠だと説得し娘たちを彼女なりに助け、彼女もまた娘たちに助けられたのだ。
何度も田舎と東京を行き来するうちに、夫の手を借りずに新幹線も電車も不安なく乗れるようになり、娘たちの家まで1人で辿り着けるようになった。子どもとかわいい孫との東京での生活は楽しく、夫からのおはよう連絡にも既読だけで返す日も増えた。その一方で彼女の夫もまた、彼女がいない日常を暮らすうちに生活力がつき、自分の両親との暮らしに少しずつ不満を募らせていった。
「あそこで死にたくないな、って思いはもともとあったんだけどね。より強くなったのよ。5年後に、あの時動いていればって、絶対に後悔すると思ったの」。そう思い始めてからの彼女の強さを、我々はもう知っている。
夫に思いを伝えても本気だとは思われていなかったことがショックだったが、諦めなかった。夫の手を引いて不動産屋に連れていき、1人でも時間を見つけてマンションの内覧に足を運び、娘たちにも相談し、これが最後と頑張った。彼女が夫に「意見」したのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。
数年前、彼女と夫は海辺のマンションを購入し、少しずつ生活の拠点を移している。手を付けられる範囲で始めた実家の片づけは想像以上に大変だが、これを子供たちの手に委ねていたかもしれないと思うとゾッとする。
住民票も海辺の町に移し、週に2日程度だが働き口も見つけた。
ばあばとして娘たちの家にも行くし、娘たち家族を迎えることもある。
相変わらずこれといった趣味も無いが、毎日楽しく暮らしているという。
身内以外の登場人物があまり多くなく、幸せの絶頂期!のような時期もない彼女の人生を勝手に案じ、「もし人生をやり直せるとしたら違う選択をするのはいつ?」と聞いてみた。
ひとつひとつ丁寧に振り返って長考したのち、彼女は「ないわね」と答えた。
あの時はつらかったな、あれは嫌だったな、というのはあるけど、あれはあれで意味があったのよ。
さっぱりと、言った。
その様子に後悔の念は本当に見当たらない。
夢なんかなくてもいい。
親友なんかいなくてもいい。
ターニングポイントなんて必要ない。
人生を諦めなかった彼女にはどの瞬間もがかけがえのない財産なのだ。
彼女は今日も前を向いて日常を送っている。
《匿名インタビューエッセイ》とは?
どこかのいつかの誰かの話。主人公が匿名のインタビュー記事。
オリジナルでスペシャルな誰かの人生を、アヤノ色でエッセイに。