平和に殺される(1)
私には、いつからかわからないけど、人格が交代してしまう、乖離の時間があった。
出てくる人格はさまざまだ。
そして、その誰かが私の体を使う間の記憶は、私にはない。
例えば、家にいたのに、気づいたら外にいる。
ある日は、病院へ向かう途中で記憶は途切れ、目覚めた時には処方箋を持って電車に乗っている。次の受診で、「違う子が来ていたよ」と先生に言われるのだ。
少し前も、LINEのメッセージ欄に、デリヘルの求人アカウントとやりとりをしようとしていた形跡があった。
私の働きたいという気持ちやお金への不安から、誰かが行動しようとしていたのかもしれない。
景色や行動がすごく変わらない限り、気づけない。
自分の記憶のない時間が、私はとても怖い。
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とある出来事から、私は自宅から少し離れた都心のビジネスホテルに1週間滞在することになった。
ホテルでの生活は、自宅療養と変わらないといえど、退屈だった。
2日目か、3日目の昼間、友人がホテルの近くまで来てくれたので、カフェへ行ってお茶をした。
小雨の降るジメジメとした日だった。
私は傘を持っていなかったので、友人がホテルの入り口まで送ってくれた。
解散した後、記憶はぼやけていく。
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私はホテルの非常階段を使って屋上へ登り、清掃されていないだろう薄汚れたコンクリートにしゃがんで、下を見下ろした。
傘をさした人たちが足早にどこかに向かって歩いている。私には沢山の人間が見えるのに、誰とも目は合わない。
その場に立って、一歩、ニ歩、淵へ向かって歩いてみる。
足がすくんで、なんだか笑ってしまう。
私は楽しくなって、白と黒の間の色の空を見上げながら、冷たいコンクリートの上で裸足になって踊った。
鮮やかな青いノースリーブのワンピースが、ふわりと舞う。
ひとしきり雨と戯れた後、背後から男の人の声がした。
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気がつけば、私はホテルの入り口でも、ホテルの部屋のベッドの上でもなく、どこかの小さな部屋のパイプ椅子に座り、目の前には警察官がいた。
私と警察官を挟む冷たい机の上には、何かのメモが書かれたA4用紙が数枚、バインダーに挟まれていた。
私が見ていた夢は、現実だった。
通行人が屋上で下を眺めている私を見つけ、ホテルの従業員に通報してくれたのだと、警察官が話した。
私の心の奥底の 死にたい 気持ちからなのか、人格そのものの好奇心からなのか。
それとも、夢見心地にその時間を知っているのは、私自身だったからなのだろうか。
ここまではパトカーに乗ってやってきたらしい。
ホテルの部屋から外に出るまでは、警察官に「ホテル代はどうするの!」と大人の人格が声を上げていたそうだが、パトカーを見て子供の人格が現れ、喜んでパトカーに乗り『犬のおまわりさん』をずっと歌っていたそうだ。
私は普段、ヘルプマークをつけている。
そこには軽度の知的があること、時々パニックになること、乖離して別の人格が現れることがあること、パニックの発作が起きた時は携帯している頓服を飲ませて欲しいこと、もしも乖離して徘徊していたら交番に連れて行って欲しいことなどを書いていた。
「困っているよね?病気、治したいと思いませんか?」
治せるものなら、治したい。
私は通院先のメンタルクリニックの診察券を見せた。
そしてホテルに滞在していた理由と、別の警察署の担当の刑事さんの名刺も見せた。
トイレに行きたいと話すと、女性の警察官がやってきて、案内してくれた。
尿検査とかするんですか?と恐る恐る尋ねると、「変な薬とかしてないでしょ?大丈夫よ」と言われ、トイレのドアを少し開け、私が用を足すのを待っていた。
その時ちょうど膀胱炎の治療中で、頻尿だったのもあり、事情聴取を受けている間、何度もトイレに行った。
「これから病院に行ってもらいます」
そう告げられ、4.5名の警察官と共に警察署を出た。
外はもう真っ暗だった。いま何時なのだろうか。
預かられていた荷物も渡された。
ホテルに持って行っていた全ての荷物だった。
ミニバンの1番後ろに乗せられ、携帯を使ってもいいかと尋ねると、病院が終わるまではダメだと言われてしまった。
私の通っているクリニックとその警察署の距離はそんなにないはずなのに、随分と時間がかかっていた。
これはどこに向かっているのですか?と聞いても、「あなたを診てくれる病院です」としか教えてくれない。
今日、帰れますか?と聞くと、「先生の診察が終わったら帰れると思うよ」と言われた。
車内はとても静かだったけれど、しばらくして誰かが口を開けた。
「ああ、渋滞だ。8時に間に合わないな。病院に電話しますか?」
今はもう8時前なのか。
友人と解散したのは2時ごろだったはずだ。
暗闇を走るミニバンは、踏切を渡ったり、狭い住宅街を走ったりした。
私は外から見えるわずかな情報で、向かっている病院はいつものクリニックではないんだな、どこへ連れて行かれるのだろうか、と、ぼんやり考えていた。