嫌い、私が嫌い
自分の思いを言葉にして残したいという考えからnoteを始めたのだが、かれこれ3ヶ月以上が経った。読み返してみると何を言いたかったのかわからない文章であったり、極端すぎると感じる場面は幾度とある。でも言葉として書き残すことの重要性が散りばめられているのではないかと考える。
自分がnoteを書くことによって、自分の言葉、他人の言葉の重みを感じる。だからこそ普段の会話では言葉の使い方に非常に注意しなければいけない。文章の上だけしっかり者を装っているのでは何の意味もない。
先日友人とお酒を飲みに行った話。
きちんと話せる、余計な気を遣わなくていいから二人で飲みに行くことが非常に好きである。これはもしかしたらただビビリなだけかもしれない。話に置いていかれることもないし、マイノリティに属して自分が蔑まれることもない。楽して生きていたいだけなのだなと今は感じる。
お酒の場では特に会話も弾む。また、場を和ませるため、お酒を美味しく味わうために話題も広がる。
面白い話はなんだろう、どの話題だったら盛り上がるかな等々を考えながら会話するのは自分に限ったことではない。ただ、話の流れが切れないように「言葉」を重ねていく。
ここで話ががらっと変わるのだが、私は自慢で勝ち顔をする人が少し苦手である。話の中で自慢をすることは何も嫌ではない。以前も書いたが、その人にしかできない自慢に対して牙を向いて責めるつもりは全くない。というか、自慢自体なにも悪くない。でも勝ち顔をするのは違うと思う。みんな別のフィールドで戦って生きているんだから、勝ちもへったくれもない。だから自慢で勝ち顔してしまったら論外だと考える。
また、他人を踏み台にして良い人になろうとする人も少し苦手である。他人の悪い習慣を例に出し、それを批判することで共感を生み、自分のステージを1つ上げようとすることを表す。言い換えると、性格の悪い友人の悪口を言うことで、「自分はその性格の悪さの部類には属してないですよ」を遠回しに主張しているのである。直接的にではなく他人を引き合いに出して自分を昇華させるやり口だ。このやり口を頻発する人は誰に対しても良い顔をしようとするので全くもって信用ならない。自分に対応力があると思っているタイプだと考える。(圧倒的な偏見をもとにしてます。)
ここで話はお酒の場に。ここまで書けばなんとなく想像できそうだが、自分がまさにこの状況に陥ったのである。
忙しい自慢をしたり、嫌なことをしてきた人を用いて「こんなの嫌だよね」という話題を出したりした。
話している最中はやはり面白い。非常に盛り上がるし、相手から共感も引き出せるので、実際その場の二人は不愉快な気持ちにはなっていない。(たぶん。)お世辞でも作り笑いでも何でもいいのだが、「楽しかった」という言葉を言ってもらえるだけでもありがたい。「言葉」を素直に受け取れないこともすごく寂しく感じるけど。
帰り道、1時間半散歩しながら反省を含めて考えてみることにした。
自分の苦手な人に自分がなってしまうのではないか。誰に嫌われるのが一番怖いか。自分が自分を嫌いになることが一番怖い。自分は自分に嫌われないように生きているのか。嫌われないように機嫌を取りながら生きている。こんなに生きづらいことはない。
人から出てくる「言葉」は実はすごく制限されたものなのかもしれない。自分に嫌われない「言葉」しか出てこないのかもしれない。
嫌いが人を作るのでは。好きを集めて自分になるのではなく、嫌いを避けて自分になる。なんとも魅力のない人になっていく。
まだまだ自分には人との交流が少ない。理想だけで人を語るのはやめよう。いろんな人がいることをもっと知るべきだ。そしたら「言葉」に厚みも出てくる、かも。
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