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猫を被った猫

最近は就職活動も積極的に行うようになってきて、全く知らない初対面の人と話す機会がある。話すというのは個人的なことを話すのではなく、テーマが決まった上で議論を交わすイメージが強い。少なくとも挨拶程度には会話をするので、初対面の人との会話に含めていいと思う。
今回は本音と建前の難しさを感じたので、記そうとおもう。

ある場面で、グループで打ち解けるために話をする機会があった。みな好印象を保つために笑顔で話し、人の話を聞く。もちろん自分もそうだ。第一印象しか与えられない場面で、マイナス点を取ろうとは思っていない。
そこで、一人がある発言をした。

「実は私今猫かぶっていて、本当はよくしゃべる人なんです。」と。

何を言い出すのかと思った。
「猫かぶっているんです」!?

どういう意図があってこれを言ったのかはわからない。本音を隠したまま話すのが嫌だったのか、場の空気を和ごませようと思ったのか。

これにしてもこの言葉で楽になるのは本人だけであると考えたほうがいいと思った。実際私を含む周りの人たちは、「今までのは何だった?」という気持ちになり、そんなことわかってやっているんだよという気持ちにもなった。全員が初対面相手におおっぴらにできるわけ無いだろとも思った。あと、なんでこっちが気を遣わなければいけないのだという気持ちにもなった。じゃああなたが話せなかったら、僕らの取り巻く環境が悪いのですか?という疑問も湧く。
逆に私たちが本音を隠しながら話していると揶揄でもしてきたんか?自分は誰相手にでも物怖じせずに披露できますよ、とでも言いたいのか?

全て勝手な妄想なのだが、可能性を探ることは意味があると思う。

「私実は猫かぶっているんです」と言うことは実は、より被り物をしたことになるのではないかと考えられる。ひいては、猫が猫をかぶることなのでは?

「実はおしゃべりなんです」がが猫の部分の可能性はなくはない。イメージとしてはマトリョーシカ人形をすれば早いと思う。「実は」ということで、本質を見せたとみせかけて、まだまだ内部には潜めているものがあるのではいないか。中心部を見せたふりをして実は1枚剥いただけ。レタスやキャベツのように、何枚も出てくる。

あの人がどのような気持ちで言ったのかはわからないが、少なくとも自分はプレッシャーを受けた。
「私は違う面も見せますよ?お前は?出せるのか?私のフィールドにしてしまうぞ?」
ここまでの圧を感じた。

本音は本人にしかわからない。ましてや初対面相手には一貫性が見られないから、信用のしようもない。傍から見たらただかわいい猫が猫をかぶっている姿なのだ。

「本音を打ち明ける」ふりをすることは自分の得だ。打算的に生きる人にとったら信頼を獲得する近道であることは間違いない。

「信頼」とは「一貫性を持った誠実さ」ではないのか?

誰に対しても同じ誠実さ。見られていないところでも一貫性を持った言動。これが信頼につながるのではないのか?

人に合わせているだけでは何も信頼できない。合わなくても信頼はできる。

私はあなたの猫の姿が見たいのではない。あなたの人間の部分が見たいのだ。

改善を求めたい。

※画像はイメージです。

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