「いま、どこ?」
最近は就職活動や教職課程に勤しむことが増え、将来のことを考える機会が圧倒的に増えている。学生という身分から社会人になることは自分が存在する環境が変わるだけでなく、行動全般を変えることに関係する。「変化」ということが将来を考えるにあたってのキーワードであると考えている。「変化」が自己成長に繋がり、活躍できるフィールドを広げることにもなる。自分の軸の中にも成長できる環境がほしいというのは常にある。そのためには「変化」が必要だ。少なくとも、何かが変わる。それがいい方向でも悪い方向でも、どちらでもよい。変わることが新しい世界に連れて行ってくれる場合が多い。ん、新しい世界が自分を変えてくれるのか?誰が変えて、何が変わるのか。何に対して変わるというのか。
「変化」はどっちが先なのか。これは自分の経験でしか語ることができない。こういうときに交友関係が広く、なんでも話せる仲の人が多くいることに憧れる。そう、私は真面目になって話せる人が欲しいのだ。忖度なしに向き合ってくれる人、目の前のことを考えることを厭わない人。
自分が変化を遂げた時を考えたい。昔は常に真面目にいるのが大事だと思っていた、はず。いつからだ。
「お前つまんないな」と言われた日か?
あの同級生に嫌われないようにしていた時期か?
学級委員なのに授業中遊んでことを怒られたときか?
遊びに呼ばれなかったあの日か?
結局、自分の感情が揺れた時で間違いなさそうだ。しかも、そのときは変化に気づいていない。あとから「あの時変わっていたのか」と気付かされる。そう、新しい人に会ってから。
自分の感情が揺れた経験が自分を大きく「変化」させ、新しい環境に飛び込ませる。
私は中学3年生のとき、早く卒業して高校に行きたいとずっと言っていた。これは将来への希望からこの発言が出ていたことは間違いない。多くの人が経験していると思う。高校見学に行き、「こんな学校生活が待っているのか!」と感情が揺れ、新しい環境への飛び込みの意欲を促進させていた。言ってしまえば一時の感情で「いま」を捨てて待っていればいずれは来る「将来」に思いを馳せていたのだ。
これは高校3年生の受験期にも言える。大学進学を目指し、受験勉強をする。それは将来、楽しいキャンパスライフが待っていて、いい大学に行けば立派な社会人になることができると思いこんでいた。だから、高校3年生という当時は「いま」しかない時間を将来のために投資していた。このことに関しては全く後悔はしていないし、勉強に励んで良かったと思っている。でも言いたいことはそんなことではない。
現在でも同じだ。将来の就職先を考えて、早いうちから行動に出て、「忙しい忙しい」と喚いている。結局、この「いま」という時期を将来自分が輝ける企業を探す時間に投資しているのである。これもまた、全く後悔はしていないし、これからもっと頑張らなくてはいけない。
でも、
でも。
私という人間は「いま、ここ」を楽しむ力がないことを痛感した。ずっと将来、未来。結局「いま、ここ」を楽しめないことを言い訳にしているのではないか。なにが先を見据える力だ。こんなもの、ただ先を言い訳にしていまの自分に合った行動をしていないだけではないのか。
もう過ぎ去ったものを後悔するほど頭がおかしくなっているわけではない。将来を見据えて見返せるようにこの文章を書いている。
いやいや、こんなことは考えなくてもいい。
「いま、ここ」を自分の中で充実させるために書いている。それだけでいい。それが将来につながっていれば一石二鳥。そんな気持ちでいないと。
前半は「変化」、後半は「いま、ここ」
真逆のテーマな気がするけど、意外と表裏一体の関係なのかもしれない。
「変化」しているのは感情が揺さぶられた「その時、そこ」
気がつくのが後だっただけで、その時、その場で「変化」しているのだ。
この文章を読んで、もしも何か心が動いたならば「いま、ここ」で自分自身が変化しているに違いない。
結局何が言いたいかまとめないとわからない。
「いま、ここ」を楽しむ力が将来のためになっているということだ。後先考えないことが後先考えていることになり得る。
そうすると、成長できる環境ってなんだろうか。
そうか、「いま、ここ」を楽しめる環境なのか。好きなことに好きなだけ取り組める。そんな環境。「いま、ここ、じゃない」とか思っている人には永遠に「いま、ここ」を楽しめる環境=成長できる環境が用意されることはないのだろう。
「いま、ここ」を楽しめる企業に行くために、「いま、ここ」を楽しもう。嫌ならやめればいい。楽しめないならやめてしまえばいい。
未来の楽しい「いま、ここ」につながる、「いま、ここ」を楽しんだもん勝ちだ。
ごちゃごちゃでわかりにくいな。書いている俺がわかってるからいいか。
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