『ミッドナイトスワン』における視線のアンビヴァレンス:「わたしを見て」と「こっち見んな」の狭間で

⚠️ ネタバレありです。

『ミッドナイトスワン』は視線に関する映画である。

視線は残酷であると同時に温かい。視線は人を生かしもし、殺しもする。

そのひとらしさ。それは、その人自身が感じるものなのか。まわりの視線が決めるものなのか。あるいはその両方なのか。はたまたそのどちらでもないのか。

「なに見とんじゃ!」とアパートの住人に悪態をつく早織と、「こっち見んな」と一果を睨み付ける凪沙。「本当のわたし」を見て欲しい気持ちと、「恥ずかしいわたし」を見られたくない気持ちの間で、登場人物たちの気持ちは複雑に揺れ動く。

スイートピーで、ショーの不出来にケチをつけつつ酔って暴れる問題客に、「踊りを観ないなら帰って!」と瑞貴とともに抗議する凪沙は、中学校への付き添いでは校内でもサングラスを外さず、ヒソヒソとした生徒たちの好奇心あふれる視線や、教員たちの呆然とした戸惑いの視線から自分自身を守ろうとする。彼女にとって、見てほしいのは白鳥になって光の中で踊る自分の「美しい姿」。けれどもそれは彼女自身の願望であると同時に決して到達し得ない幻想でもある。実際に視線を浴びるのはいつも、「白鳥になりたい」と踠(もが)いている「醜い」自分でしかない。

ところが一果は全てを超えて、唐突に、その場にいた全員の視線を釘付けにする。彼女は自然にステージに引き寄せられ、そこに立つ。ただ、踊りたいがために。昼間、アルバイト先で、大人たちの欲望に満ちた視線に無感情のままに晒され、消費されながら、彼らの「笑って」という要望には笑顔ひとつ与えなかった一果。ショーのあと贔屓の客とのお酒の席で、「きれい」という虚しい褒め言葉を発しつつも自分たちを「下に」見て安心している「彼ら」に愛想笑いをふりまく凪沙と、無表情のまま写真を撮られる一果。二人の心のうちは、おそらくそれほど変わらないだろう。

「こっち見んな」

「彼ら」は自分たちを消費しにきている。金を払い、優越感に浸り、見下しながら、彼女たちの「美しさ」を褒める「彼ら」への嫌悪感は、「キッモ!」とプレゼントを投げ捨てることで逆に「彼ら」を消費し返すりんの逆襲によって、象徴的に現出している。一果が同級生や顧客に投げつける椅子や、瑞貴の振り上げたモップによって「彼ら」が流す血は、彼女たちの心が流し続けていた血そのものでもある。事件を起こし、絶望し、凪沙に抱きしめられながら、悔しくて悲しくて腕を噛みながら泣き狂っていた少女は、たまたまそこにステージがあったから、たまたまステージ上に誰もいなくなったから、おそらくそんな理由で、吸い寄せられるようにステージ上に立ち、誰に見せるでもなく、舞う。

わたしはわたしだ・・・と。

その姿を見た凪沙にはわかってしまったのだ。一果は見られたくて踊っているのではなく、ただ踊りたくて踊っているだけ。それなのに彼女は、その場のすべての視線を一瞬にして釘付けにする。技術力というものを超えた、圧倒的なまでの魅せる力。一果は光の中で踊るべき人間なのだと、その一瞬で凪沙は痛いほど悟ったのだろう。だからこそ、大切なヘッドドレスを一果に与えたのではないだろうか。

公園でギエム先生と踊っていた頃の幼い一果は、ただ、自由であれる場所、自分自身であるための手段、いつか羽ばたく夢を抱ける希望として、バレエに逃げ込んでいた。ただただ、踊らずにはいられなくて、踊っていた。だからこそ、新宿で実花に出会い、才能を見出され、地元のコンクールでは「優勝候補」とまでささやかれながら、一果は「見られること」に恐怖心を覚えたのではないか。夢にまで見たスワンレイクを光を浴びて舞うはずの舞台で、客席で彼女を見つめていたりんの視線は彼女を硬直させる。演目アレルキナーダで二人の「秘密」の物語を、りんとシンクロして踊っていたときには活き活きと自由に舞えた一果は、「飛び立って」しまった親友の想いをすべて背負って、ひとりで白鳥を舞う勇気が持てなかったのかもしれない。

少女のころの、大人の入り口に立ってそっと世界を覗き見したい年頃の、恋とも愛ともつかない想い。自分自身も視線を浴びて輝きたいという気持ちはきっと最後まで捨て切れていない「りん」だけれど、大切な存在に輝いてほしいと願う気持ちは純粋なものだったのだと思う。大人たちの無意味な褒め言葉が飛び交う披露宴パーティー会場であるビルの屋上で、りんはバレエのステップを踏むことで、ほんのひととき、列席者のすべての視線を独り占めにする。だが、皆の視線と称賛を浴びながら得意気に踊っていたりんは、披露宴の「主役」である新郎新婦の登場と同時に、誰からも注目されなくなる。実の両親さえも彼女のことを「忘れ」、「主役」の二人とともに、自らが皆の視線の中心となる。けれども、りんにとって大人たちの一時的な視線はもはや不要なものでしかない。移り気な大人たちの背後でりんは笑顔で踊り続け、最後は誰にも見られることのないまま、彼女は自由のその先へと飛び立つ。

一果と凪沙に話題を戻すと、一果の視線はふたりの出会いの当初から、まっすぐに凪沙を見つめてきた。その視線を鬱陶しく、わずらわしく、うとましく感じたこともあったであろう凪沙。常に一果の前で「美しくあり」たかった凪沙。最初は、ただ女性に生まれただけの彼女への嫉妬や、自尊心からだったのかもしれない。けれども、一果にバレエを習わせ続ける決意をしてからの凪沙は、常に真っ直ぐ見つめてくる一果を前に、自然に「女性である」ことができるようになっていく。一果の視線を意識しなくなっていくこと。それは彼女自身にとって救いであり「解放」であったのではないか。

逆に凪沙が髪を短く切って「本来」の「男性」の姿になったとき、一果は恐怖心ととまどいをあらわにする。「自分自身であること」はなによりも自分自身のためであって、他の誰かのためではない。「あなたのため」が透けて見える凪沙の変貌への一果の拒否反応は何よりも、実母である早織への拒否反応であっただろう。けれどもその時凪沙は、一果を「母」の愛で抱き寄せた。「男性」の姿である凪沙の表情が、映画全編を通して最も「女性的」にみえた奇跡の瞬間だ。「あなたのため」は「わたしのため」でもあるのだということが、抱き寄せられた一果に身体を通してじんわりと伝わっていく。世界の片隅で生まれたちいさくて大切な愛を、壊さないように丁寧に優しくそっと、慈しみ、抱きしめる凪沙。凪沙の深い愛情が控えめにスクリーンから染み出してきて、ぐっと心を掴まれる瞬間である。

一果に美しいものを見せたいという凪沙の気持ちは、彼女の表情をやわらげ、あたたかくしていった。だからこそ、「男性」の姿になった凪沙の表情は、あの映画の中で最も慈愛に満ちて、どこかしら聖母のような印象さえまとっていたのかもしれない。

時を経て、一果を迎えにいった東広島の実家では、凪沙は今度は「女性」としての肉体で一果の前に現れる。けれどもその時の凪沙はもはや、あの時の目をしていない。自分の露(あらわ)になった胸に小さな驚きととまどいを見せる一果の幼さに、「あなたの行為は『自分自身であること』の押しつけである」という周りからの嫌悪の視線に、凪沙はやるせない絶望と敗北感を感じ、一果を置いて去っていくのである。

凪沙が最後、視力を失うのも象徴的だ。彼女は視力をなくしたことで、他者からの視線への恐怖心がある程度は緩和したのだろうか。ただ、訪ねてきたのが一果だと気づくと、自分の「こんな姿」を凪沙は「恥ずかしい」と思う。

けれども彼女はそれをそのまま口にし、以前のように、「こっち見んな」とは言わない。

見えなくなった凪沙は水槽に、金魚たちの美しい姿を見続ける。海辺では、自分がずっとなりたかった「かわいいスクール水着姿の少女」や、飛び立とうとする白鳥を見る。そして、一果の踊る姿を見る。現実世界では、「見たくないもの」、「ひとびとが表社会では上手に隠している様々な醜い欲望」を見させられ続け、見続けなければならなかった凪沙は、一果のおかげでようやく最後、一番うつくしいもの、自分が本当に見たかったものを、見ることができたのかもしれない。

一果が光を浴びて踊る、ラストシーンも象徴的だ。

ただ踊りたいだけで、特に他人の視線など必要なかった一果。むしろ視線から逃げるために踊り、他人の視線を邪魔にさえ感じていたかもしれない一果が、最後、光を浴びて踊る覚悟を決める。かつて学校の屋上で、彼女が踊るのを見守り続けた親友りん、誰よりも一果に視線を送り、ほかの生徒そっちのけで彼女だけを見つめ、夢を託した実花、そして彼女を光の当たる場所に立たせようとした凪沙。最後、大切なひとたちの想いを乗せて、何人分もの想いを乗せて、一果は光の中でステージに立つ。それは、ただ自分のためだけに踊りたかった少女が、誰かのために踊る覚悟を心に決めた瞬間でもある。

かつて髪を切った凪沙のように、「あなたのため」が「わたしのため」になることを背負い、そのことに喜びを見出せるまでに、そして手渡されたヘッドドレスにふさわしい白鳥を舞えるまでに成長した一果の姿に、わたしたちは希望を見出し、未来を託す。

「見てて」と最後に一果はつぶやく。

それはもちろん登場人物たちに向けられた言葉、なによりも凪沙に、そしてりんに向けられた言葉である。けれどもそれは同時に、この作品を観ている「わたしたち」に向けられた言葉でもあるのではないか。

最後、ステージの袖で出番を待つ一果の表情は凛としつつも、やわらかい。かつての震えていた少女とは別人の、自信と覚悟、そして慈愛に満ちた表情。「わたしを見て」と「わたしを見ないで」の狭間で怯え、苦しんでいたかつての自分自身から解き放たれた喜びが、彼女のステージにはあふれている。

「見られる」宿命のもと生まれた一果はこうして大空へと羽ばたく。

『ミッドナイトスワン』

芸術は「自己表現」であると同時に、他者の想いを表現するものでもあり、他者の視線に委ねるものでもあるのだ、という原点に改めて気付かされ、「ではわたしたちはどうすれば」と、胸を揺り動かされる作品である。

                 *

さいごに。

「見られないと死んじゃう生き物」であると自らのことを語った香取慎吾君の言葉をふと思い出した。わたしたちは今、彼らにどんな視線を送っているだろうか。

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