ふくすけ2024 歌舞伎町黙示録 感想(ネタバレ注意)
2024年8月14日(水)
心から敬愛している劇団「大人計画」の舞台
「ふくすけ2024 歌舞伎町黙示録」
を観るために、私は京都へと赴いた。
京都、本当に恐ろしく暑かった。
でもその暑さを跳ね除けるくらい、
感動が凄まじくて、数日間は頭がぼーっとしてしまった。
~ ふくすけのあらすじ ~
薬害被害によって身体障害児として生まれ、
長期間監禁されて育った少年・フクスケ(岸井ゆきの)。
監禁から解放された後、入院していた病院の
警備員・コオロギ(阿部サダヲ)に本性を見破られ、同意の元、フクスケは誘拐される。
コオロギには盲目の妻・サカエ(黒木華)がおり、彼女に歪んだ愛情を抱き、サカエはコオロギを献身的に愛していた。
一方、14年間行方不明になっている妻を
探しているエスダヒデイチ(荒川良々)は、
噂を頼りに歌舞伎町へとやってきた。
ひょんなことから出会ったホテトル嬢・フタバ(松本穂香)と自称ルポライターのタムラタモツ(皆川猿時)の協力のもと、妻の行方を追う。
歌舞伎町の風俗産業で成功し、飛ぶ鳥を落とす勢いのコズマ三姉妹(伊勢志摩・猫背 椿・宍戸美和公) 。そんな彼女たちのブレーンには、精神疾患を患い行方不明になっていたはずのヒデイチの妻・エスダマス(秋山菜津子)の存在があった。
裏社会にも影響力を持ち始めた彼女らは、政界にまで進出しようと企んでいる。
彼らの渦巻く情念は、やがて多くの人々と歌舞伎町自体を巻き込み、とんでもない方向に動き出すことに…。
ふくすけは、今回で4度目の再演。
大人計画屈指の人気作だ。
これまでの上演作は、生で観ることは叶わなかったが、記録映像で何度も何度もみてきた。
私が愛してやまない作品。
あらすじはかなり簡略化して書いているのだが
重めのテーマを取り扱っている上に、
かなり入り組んだストーリーであることは
なんとなく理解していただけるだろう。
私が初めて鑑賞したのは、確か中学生か高校生くらいの頃。
そんな年齢の時にこんな内容を見てしまうのも
どうかと思うが、毎度のことながら大人計画の作品には、自分の中の常識を覆されるような、相当なショック受けさせられた。あの衝撃は忘れない。
私の思想の大部分は、この戯曲の作者、松尾スズキ氏に影響を受け、今日まで健やかに育っている。
フクスケは、直接的な表現をすると、
頭部の肥大化した奇形児。
そのほかの登場人物も躁鬱病、視覚障害、
吃音、風俗嬢、新興宗教などなど…
皆それぞれ独特な個性やバックボーンを携えた
人間として描かれる。
濃密過ぎる。これらの人々を一つの物語に
凝縮しているのだから、観るにも結構体力を使う。
前の三演では、フクスケは勿論、
エスダヒデイチと妻・マスというキャラクターを軸に物語が進んでいた。
しかし本作では、コオロギに焦点を当て、
ストーリーが進んでいるのが、これまでとは
違った視点から話を読み解くことができて
新鮮で面白かった。
今まで語られてこなかったコオロギの
バックボーンが細かく描かれ、
単に異常で歪んだ人間に見えていた彼に
切なさというか物悲しさというか、
そういう人間味のようなものを感じ取れたのが
とても印象的だった。
今作のとある場面で、コオロギの血を
フクスケに注射器で輸血(強制的)するシーンが
あったのだが、これは今までの作品には
見られない演出で、前回までフクスケの役は
阿部サダヲが担っていたのだが(初演は温水洋一)、今作では阿部サダヲがコオロギ役、岸井ゆきのがフクスケを演じていた。
「あんたの血を受けたフクスケ」
という台詞が後半にある通り、
これは物語上の演出であるのにプラスして
現実にもリンクさせた演出(継承)なのだと
私は感じて、その粋な計らいに震えてしまった。
細々としたストーリーの変更があるにせよ、
この物語は「生まれ直す(輪廻転生)」そして「純愛の顛末(てんまつ)」という主題が掲げられている。この大元は変わっていない。
「純愛」と聞くと、ひたむきな愛情といった
綺麗でまっすぐなものを思い浮かべる。
が、勿論この物語で言う純愛は
そんな生優しいものではない。
ひたむきさ、一途さというのは
一見清らかで美しい響きだが、
何事も度を越すと、それは異常なものとなる。
愛するものを一途に、ただひたすらに
見つめ続けることは、それ以外の視野を
遮断させる。この物語での純愛には、
そんな危うさがある。(というか危うさしかない)
これまでの三演では、その「純愛」は主に
エスダヒデイチとマスを通して描かれていた。
躁鬱病を患い、14年間も行方をくらませている
妻。その妻を探し続ける夫。
しかしその愛が、妻には眩しすぎたのだろうか。
今作ではエスダ夫妻のストーリーはそのままに、
コオロギ、サカエ夫婦の歪んだ愛が深く、そして重く描かれている。
盲目の妻・サカエに対し、コオロギは
それなのに幸せだと言うのか?と非情な問いかけを続ける。それに対し「幸せよ」と言い切るサカエ。
前科持ちの旦那に毎日見下され
罵倒されながら暮らすなんて側から見れば
幸せそうに思えるわけがない。
「私が幸せだってんだからいいじゃない!」
と返すサカエだが、コオロギは何故かどうしても、サカエに「不幸です」と言わせようとする。
そんなことを言いながらも、
サカエの目が見えないのをいいことに、
愛人を家に上げてやりたい放題していたりと、
不幸のどん底に思えるような生活を、
どこか2人は少し楽しんでる風にもみえる。
しかし、心だけは傷つけるにも関わらず、
コオロギは決して暴力だけは振るわないのだ。
前3作と違っていたのは、コオロギとサカエが
「子供」を欲しがっていたという点だ。
以前までの台詞では、
というやりとりがあった。
本作では
「私に子供ができないから?心だけ痛めつけてるの?」
というセリフに変わっている。
この2人は、自分たちが愛し合った証である子供を望んでいた。つまり深い部分では互いを愛していたのだ。しかし、これまでの境遇や歪んだ思想などから、色んなことが取り返しのつかないことになってしまい、悲しい顛末を迎えることになる。
ここからは私の憶測だが、
コオロギはサカエにずっと、自分の問いかけを否定し続けてほしかったのではないだろうか。
「不幸だろ」という問いに「幸せよ」と
言い続けてほしかったのだ。
だから「フクスケと寝た?」という問いに
「してないよ」と、言い続けてほしかったのだ。
業のように生み出される絶望を、否定し続けてもらいながら、それでも自ら満たされることを、あえて拒み続ける。そんな矛盾を抱え、今日をなんとか誤魔化して生き凌ぐ。
しかしそれは、自分の中に広がる果てしない虚しさから、目を逸らすためだったのかもしれない。
長々と書いてしまったけど、正直、ほんの一部にしか触れられていない。本当はまだまだ語りたいことがたっっくさんある。
けど、もうキリがないし、思慮深さとボキャブラリーが尽きたので無理。笑
物語の舞台が歌舞伎町ということもあり、
東京公演はTHEATER MILANO-Za (東急歌舞伎町タワー)で行われていて、きっと現地で観る
ふくすけは空気感がまた違ったのだろうな、と。私は京都公演を観に行ったので、それだけが少し悔しい。
という台詞に、もっと生々しく笑いたかった。
ホント、何度も何度も見ていたので
大体のストーリーラインはわかった状態で
観劇したというのに、やっと初めて生でみる
ことができた喜びと、どうしようもない切なさで、ラストは涙が止まらなかった。
全体を通して思うことといえば、
これは「ふくすけ」だけに限らず、
松尾スズキ氏の多くの作品に当てはまることだが、彼の書く世界というのは、
「もう崩壊寸前ながらも、その事実を見てみぬフリし続けてきてしまった人々の、悲劇と顛末」
なのだなと。
私はこの人の書く絶望が好きだ。
世の中には「痛快」という言葉がある。
痛くて快い。痛キモチイみたいなことなんだろうか。
この言葉って、どことなくコミカルな響きを纏っている。軽くほっぺたをつねられるような、
ペチンとビンタ食らうような、そんな類の
軽さのある痛みを連想する。
でも痛みというもは、案外種類豊富なもので。
私の好む痛快さは、もっともっと重みのある、
例えるならば後頭部を鉛でゴッと殴られるような、そんなズシリとくる痛み。
しかしそれが心地よい。そちらの方が、
世界の本性?みたいな気がして、
それを暴いた快感と高揚感がある。
松尾スズキの書く"不条理"な物語は
私をケラケラ笑わせながら、
世の中の正体みたいなものを教えてくれた。
ような気がしてる。
絶望を煮詰めたようなお話を、観ているのが幸せなのか?と聞かれれば
私はまっすぐ「幸せ」と答えられる。
これもある種の純愛だろうか。
こんなに絶望的で救いのない話なのに、
美しいと感じてしまうのは何故なのだろう。
劇中のセリフを、またふと思い出した。