時間の流れ方について
誕生日から毎日、短くてもいいから文章を書こう、と目標を立てていたというのに、そんなことすっかり忘れていて。誕生日から3日経過した、真夜中の湯船で、私はそのことを思い出した。
湯船の中、私はクレンジングオイルを顔に塗りながら、半分眠りかけていた。半ば夢に入りかけていた私の頭の中では、なぜか作品もほぼ読んだことのない芥川龍之介の顔が浮かんでいて
「遊び人だったのってこの人だっけ?」
と、謎に太宰治と情報がごっちゃになっていた。そして、あーやばい、何も書いてない。と気づいて、ハッと目を覚ました。
走り出しから早くも躓いている。
そんな28歳と3日。
ああ、もう、いかんなぁ。と、ドロドロの顔を洗い流し、頭も濡らし、湯船に入ったままシャンプーを始めた。(湯船に浸かるのは今日は私が最後だからいいのだ)
その最中もボンヤリぐるぐると考え事は続く。考えている内容はあっちこちに飛び、一貫性がない。多分そうこうしているうちに5分10分経っていく。でも私の体感では2.3分しか経過していない。
そこでふと、思う。
私の中を流れる時間と、私の外で流れている時間は、流れる早さが違うのではないかと。そんなの、怠惰なことの言い訳だと言われてしまえばそれまでなのだが。
でも、こうやって考えると自分の日々のちょっとした生き辛さにも納得できる気がする。
私の中の時間は、もっとゆっくりしていて、その時間のままに生きていくことが出来れば、もっと心に余裕が持てるのに、と。
いつだったか。私は友人と、昼から先ほどのように半分寝ているような起きているような、ボンヤリとしたフワフワとした時間を過ごしているときがあって。そのとき、戯言のように呟いたことを思い出した。
「時間の流れは、本当はひとつじゃないんだと思う。
今、目の前で認識できる時間は一種類しかないけど、本当はもっと沢山の流れがあってさ。
例えば楽しい時間があっという間に過ぎたりすることもあればさ、暇すぎると長く感じたりするし。それは普段気づいていない、別の時間の流れの中にいるからで、、。そう思わん?」
友人も、半分眠りかけていたので
「あー、そうかも。きっとそうだよー」
と、寝言のような返事をして、その会話は終わった。
たぶん、私はあの時、うつらうつらとした心地の中で、複数の時間の流れを同時に感じていた。
それがどのような風だったかは、もう覚えていないのだけれど、自分の発した譫言を、目が覚めた後でも鮮明に覚えていた。
そのことを、再び思い出した。
私の中を流れる時間は、本当はゆったりしている。なのにいつもどこかせかせかとした、余裕のない体と心で生きてしまうのは、外の時間の流れ方に合わせようとするからなのだ。体の中と外の時差を埋めようと必死なのだ。それでバランスを崩し、ちょっとした失敗を沢山する。
言い訳だ。言い訳くらいさせてくれ。
でも時間の流れが中と外で違う人は、きっと私だけではないはずだ。それに気づいているか、いないかだけだ。逆に、体内の時間の方が早く過ぎる人だっているだろう。スパスパと手際よく、妙に生き急いで見えたりするのかもしれない。体の中と外で、時間の流れ方に大きく差がない人だっているだろう。人の数だけ流れ方がある。と思う。
そんなことに気づいたからといって、明日から格段に生きやすくなるわけでもないのだが。納得できた、ということは、自分にとって良いことだった。
自分に合った流れ方で、生きていけるのなら、もっと体の力を抜いて、柔らかくなれるのかもしれない。この凝り固まった首筋や肩も、ほぐれてくれるのかも。
なんて文章を、チマチマ小さなスマートフォンの画面に打ち付けているのが、凝りの最大の理由なのだからして、多分明日も私の猫背は治らない。
でも文章は書いた。それだけで今日はよし。