【遺書日報】2020年9月23日
遺書日報を書き始めたのが、8月26日。そろそろ1か月が過ぎようとしている。まさかこんなに続くとは。
昨日はめちゃくちゃ手を抜いた日報だったし、遺書要素(?)も少なかった。
書くハードルを可能な限り低くした結果、投稿を継続できているのだろう。
すっかりリフレッシュもできて、毒気も抜けてきた。
そんでもって、昨夜ふと気づいたことがある。
6月頃から8月にかけての記憶が消えている。
一時的なものなのかどうか分からないが、つい数週間前まで思い出せていたことが思い出せない。
悩み事を両親や友人に相談をしていた記憶があるのだが、「何か相談をした気がする」程度しか分からない。
他者に対する恨みつらみのような気持ちを持っていたような気もするが、誰にどんな疑念や苛立ちを抱いていたか全っっっく思い出せない。
たぶん、「○○さんのこと××って非難していたよ」と言われたら、恥ずかしくなってしまうと思う。「他人様のことを非難するなんて!よく知らんけど」みたいな。
自分のことなのに思い出せないし、思い出せないから他人事のように感じてしまう。
現時点では全く困ってないけど、記憶が戻らなかったら大分困る気がする。
かなりまずいのが、職場の方々の名前がちゃんと思い出せない。これは困る。
あと、現在進行形で記憶力はバグり続けている。
数を数えるという単純作業ができないことが多い。どこまで数えたか分からなくなるのである。自分一人の時なら笑い話で済むが、労働の場においては致命傷。
知り合いの料理人さんの「万願寺唐辛子が数えられなくて料理長にどやされた」エピソードには非常に共感を覚えた(その方の場合は寝不足が原因)。
万願寺唐辛子数えるの難しい界隈にとっては、「できて当然の単純作業」は荷が重いのである。万願寺唐辛子数えるの難しい界隈って何。
単純作業ができなくなっているので、「自分には何ができて何ができないか」の判断に不安を覚えるようになる。
バスに乗る際にちゃんと料金を払えるか不安になったり、ひどいときには文字が書けるかどうか不安になったり……。
元々、小さいころから手先が器用なのか不器用なのか判定が難しいところはあった。
洋服を綺麗に畳むとか、折り紙で綺麗に鶴を折るとか、そういった類のことはあまりちゃんとできなかった。
一方で、ピッカピカのどろ団子を作るとか、彫刻刀で木を彫るとか、電動のこぎりで板を切って磨くとか、そういった類のことは得意だった。
健康な時でさえ何ができて何ができないのか判定が難しかったのに、精神があちゃーしてからさらに難易度が上がった。
ぶーたれてても仕方がないので、とりあえずそういうゲームだと思って楽しむことにした。早く「己の能力判定マスター」になりたい。
これにて、本日の日報は終わりです。
今日は1100文字以上書きました。わーい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?