【遺書日報_セカンドシーズン】2021年2月19日
こんばんは。今日も書きます。
これまで書いてきた生活ヘタクソ太郎の生活日記をざっっっっくり振り返ってみると、もしかしたら、私が今実践していることは、ADHD生活における中級レベルの小技集なのかなと思いました。
かつて生活ずるんずるんADHDだった私は、そもそも部屋の中で自分がどのように動いて良いのか分からない状態になっていました。衣類の片付けがどうだの、ストックの持ち方がどうだの言ってる場合ではなかったのです。
部屋の動線が考えられていないし、収納も適当に使っていなさそうなものをぶち込んでいたので(これは今も同じ)、あれがないこれがない、部屋にいても落ち着かない……という状態が続いていました。
心地よさを感じたことがないので、何が自分を心地よくし、何が自分を心地悪くしているのかが判然としなかったのです。
また、「自分はADHD傾向が結構強いかも!」と本格的に疑い(?)はじめたのは大学4年生くらいの頃でした。それまでは、自分の怠惰な性分に対してADHDを用いることは”言い訳している”気持ちになっていました。実際、ADHDであるか否かというのはそこまで重要ではなく(と言ってしまうと語弊があるので、ADHDであるか否かは、自己と向き合う上でおいおい重要になってくると思います)、生活において困り感を抱えていることから目を背けないことが重要だと思います。
え????自分で言ってて本当にそうか?と懐疑的になってきた……。
とにもかくにも、ADHDと診断されるか否かが人生において大切なのではなく、生活に困り感を抱えていると認知し、その困り感にどう対処するかを考えていくのが人生において大切だと信じたい。現在のところ信じてます。
Twitterでたまに見かけるのが「自分の日頃の怠慢は、ADHDのせいではなく、ただ単純に無能だからだと診断されるのが怖いから病院に行けない」という旨のつぶやきです。
いや~~~~~~~~~~~~~~~わかる。
頑張ったらできるのに、頑張らないだけじゃん。言い訳じゃん。みたいな。
自分が大学生の時、ADHD傾向があるかもしれない旨を知人に話したら「なんでもかんでも発達障害のせいにしたらダメだよ」と励まされましたが、今思うと「うるさ過ぎワロタ」です(そもそも、そんな相手にそんな相談をするなという話でもあります)。
生活における困り感については、ADHDと診断されるか否かにとらわれず、「困ってるから助けてくれ」だけで良いと思っています。人生そんなに甘くはないとはいえ、うるさい公的機関はそういうもんだと突っぱねます。そして税金の存在に思いを馳せます。そうです、公的な支援にリーチすることはかなり大事だと思います。たぶん。
そもそも、有能か無能かという判断には基準が必要です。世界に存在する基準は1つとは限りません。何故我々はメートルやらインチやらヤードやらフィートやら寸やら尺やら間やら使っているんだ。何故人は……。
そして、その有能/無能の基準が世界の真理であり絶対的なものであるかどうかは、分からないと思います。
もし誰かが「お前は無能だ!」と言ってきたら(面と向かっていってくる人大分おもろヤバイですね)、「俺の基準とお前の基準、どっちが強いかバトルだッ!!」となれば良いと思っています。そんなわけあるか。
ということで、今日はADHD傾向への向き合い方について書くことになりました。
ADHDと診断されなくても、ADHD傾向があるかもしれないと分かっていることが素晴らしいと、私は信じてやみません。
※2021/02/20 追記※
「ADHDと診断されていなくても、ADHDだと勝手に思い込んでしまっていいや~~~」みたいなニュアンスになっちゃってたかもと焦って追記。もう、ガンガンに焦っています。
ADHDだと勝手に思い込むというのは、言わずもがな(?)たぶんマズイ。
病院に行って診断をしてもらった結果、ADHDだよと言われることもあれば、ADHDではないよと言われることもあるし、診断にとらわれすぎずに、自分の困り感に対して「甘え」や「言い訳」以外の目の向け方をしてみても良いかもしれません、ということが言いたかったんですね。
「自分はADHDだと診断されたから、もう困りごとを抱えたままの生活で良いや~」というわけにはおそらくいかないでしょうし、「自分はADHDだと診断されなかったから、ただの無能の怠慢が露見してしまった……」ということでもないだろうと書きたかったのです。
自己理解をえいやっとやっていっていることが、もう尊いよね、と言いたかった……。
いや~~~~全然締まらない。お恥ずかしい。
でも、ここに関しては言葉を尽くさなければと思いました。
※追記終わり※
これにて本日の日報は終わりです。
明日は何を書こう……。