【遺書日報】2020年8月26日

私はとにかく物事が続かない。日記を付けようにも3日も持たない自信がある。自信しかない。

強制力のあるものであれば、多少は継続できるかもしれない。


ということで「日報」である。

日報とは文字通り、日々の業務などを報告するものである。

報告ということは、誰かに読んでもらうことを前提としている。これは良い。

日記は続かない私がTwitterだけは何故か続いているのは、報告という側面を持っているからではないか、と考えた。


そして、社会人の嗜みである「遺書」(個人の感想です)。

遺書とは、自身の死後に読まれることを想定した手紙などのことを指す。これもとても良い。


誰かに読まれることを前提とした条件下で文章を書くというのは、非常に良い。何となく続けられる気になってくる。


つまるところ、これは死後に読まれることを想定した文章を書き続ける試みである。めっちゃ楽しそう。

書き手である私がいつ死ぬか分からない状況で更新していくので、「遺書(フラゲ)」でもある。ちなみに、自死の予定は、現在のところない。生存スケジュールが変更した場合は速やかに報告します。


いつか死ぬ自分、そして自身の死後に生きている人間に向けて書く日報。

仮に自分が早死にした場合、両親や交流のあった知人は生きている可能性が高いので、この日報を読んでくれる可能性も高い。

そういう人々がこの遺書日報を読んだ時に、私という人間が何を書き、何を楽しみ、何を書かず、何を誤魔化し、何に怒り、何で生きていたか、一瞬でも想像を膨らませてもらえたら嬉しい……のかもしれない。本当に嬉しいかどうかは分からない。実際に書いてみないことには何とも言えない。

あくまでも、他人に見られることを前提としているので、めちゃくちゃ取り繕うし、死ぬほどコンプラを守ることをモットーに進めていきたい。


ここまでが、遺書日報のスタンスである。私はこの試みをかなり前向きに捉えている。めっちゃ楽しそう(2回目)。

両親や知人に向けての生存報告としての遺書日報。その最初に何を書こうか、非常に迷う。

スタンスの説明だけでいっかな、とも思ってしまう。凝った文章を書こうとすると長続きしない気もする。


最初に書くとするならば……とちょっと考えて、「自分がどのように自身の死と向き合うか」をちょろっと書こうかなと思った。すぐにギブアップするかもしれないが、少しの間粘ってみる。


私は死ぬのが怖い。理由は、痛そうだから。

痛みがともなわなければわりとすんなり死をいれられるかもしれない。とにかく痛いのが嫌だ。マゾヒストの才能が無い。


ただ、自分が死んで万が一悲しむ人がいるとちょっと辛いかもしれない。私が死んでも「死んだわ(笑)」くらいに思ってください。生きとし生けるものはどうせ死ぬので。

特に、両親。私が何かしらの理不尽な死を遂げても悲しみすぎないでください。生きとし生けるものは、皆死にます。大丈夫です。遅かれ早かれ死にます。親よりも早く死んでしまった場合は、「めんご!」と思いますが、どうしようもないので諦めてください。私が死んでも気にしすぎず、楽しく生きてほしいです。私は、あなた方の子どもとして生まれたことが、涙が出るほど嬉しいです。面と向かって言うことは、たぶん一生ないでしょうが、これはあくまで遺書なので書いちゃいます。


この世とのお別れは辛くないのですが、私が死んで悲しむ人がいると多少は辛いので、私の生存のことはあんまり気にしてほしくはないです。皆どうせ死にますし。


と、このように、私の場合「遺書」を意識すると、イイ感じにキレイめなことを書きたがる傾向があるみたいです。これからも、コンプライアンスを守って遺書を書いていきましょう。まかり間違っても、「○○のことを死んでも殺す~~~~~~~~~~~~~~~~~~~👍」なんて書いちゃわないように。相討ちじゃなく、圧勝していこう。


これにて、本日の日報は終わりです。

日報が週報……月報……とならないように努めたい。とにかく、ハードルを低く、低く、つまらんことを永遠に書き続けていけるように怠惰に努力していきたい。

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