【遺書日報】2020年8月28日

継続は力なり。

今日もなんとか、遺書日報にたどり着いた。


無意味に急かされている(と私は感じている)作業を横目に、私は遺書日報をしたためる。

何故なら、私の人生において、遺書日報の方が大切だから。


今日は死生観について書く。はず。

今現在、私が抱えている死生観として、「日々の苦役から逃れたい」という気持ちが大きい。私が直近で死んだ時は労災認定してください。12:00〜24:00までノンストップ⭐︎労働⭐︎生活。


ということで、「人間は何故生き、そして死ぬのか」というような問いをじっくり考える余裕がなくなっている。

他者との温かい交流が減り、詰られ、蔑まれ、時に透明になり、息を吸って吐くことしかできなくなっている。非常に不本意。

社会に憤る暇もない。私には時間がない。


勿論、身近な人には良くしてもらっているが、私の人生は哀愁を漂わせるタームへと入った。


私の「死にたい」は、今やただの嘆きでしかない。もっと積極的に、明るく楽しく、死に向きあいたい。

私という存在への不安感を強く感じている。一挙手一投足何もかもが間違っているような感覚である。おそらく、正しくもあり、大きく間違ってもいる感覚である。


全ての責を自分自身のものとして受け容れている。今はそれしかないと思っている。そして、そのまま労働に精を出すより他ない。

考える余地はない。


痛みが苦手なのに、複数回刃物を身体にあててみようチャレンジを行っているのは、はやく苦役から逃れたいがためである。


本来であれば、さまざまな人と関わりを持てる大海原にいるはずなのに、なんとも勿体ない。

今いる環境も、行うべき仕事も、刺激的で魅力的なはずなのに、なんとも勿体ない。

労働を苦しいと感じていることが、苦しい。私の気持ち一つで苦しいものから楽しいものへと変わるはずなのに。変わらないのは、全て私の責任だ。




そんなわけあるか。




全部が全部自分自身の責任だなんて、傲慢にも程がある。

私は全知全能の神か。アホか。


私も悪いし、お前も悪い!!!!!!!!

以上。


わたしの死生観に深みもクソも無い。

みんな違って、みんな最低。

生きとし生けるものは、みんな死ぬ。


他人の死を願いながら、他人から死を望まれるようなそんな人生です(本当か?)。嘘です。


今回は時間もないし、疲れたしで書き散らし日報になりました。

一応、以下にまとめを示します。


現在の私の状態: 労働辛すぎる


労働辛すぎる故に、

①複雑なことは何も考えられん

②「とにかく苦しみから逃れたい」というニュアンスの「死にたい」が出てくる


①複雑なことは何も考えられん

→ 独自の死生観の深掘りにはならず、ただただ「死にたい」と嘆くばかり(②に通ずる点)


②「とにかく苦しみから逃れたい」というニュアンスの「死にたい」が出てくる

→カジュアル自傷未遂


「苦しい」の内容分析: 魅力的な仕事に従事しているはずなのに、苦しみを感じている状況そのものに、苦しんでいる

「苦しい」の由来の分析: 気の持ちようを変えられない自分に全ての責任を感じている


------突然のちゃぶ台返し(サビ)------


全ての責任が自分自身にあるという考え=傲慢

→ 自分以外にも悪いところはある


最終的に行き着く死生観: 生きとし生けるものは、みんな死ぬ(深みもクソも無い)


以上。


これにて、本日の日報は終わりです。

何だこれ。寝て起きて改めてこの遺書日報読んだら、訳分からん過ぎて卒倒するかもしれない。

私の死生観に深みもクソも無いという点が、本日の日報の押さえておくべきポイントですね。


「書く」ハードルがどんどん低くなっていって、非常に良い感じです。

明日も生きてたら、遺書日報続けます。

どうぞ、よしなに。

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