「礼」と「礼儀」の違いの話。
面白い記事を読んだっす。
トランプさんがデンマークのグリーンランド買うよって言ったら、フレデリクセンさんに「馬鹿げてる」って返されて、それに対してトランプさんが「非礼だ」と怒ってるわけですね。
で、面白いのは、多分、フレデリクセンも同じように思ってるとこなんすね。どっちもが相手を非礼だといってると。じゃあどっちが非礼なんだというと、どっちもどっちだよねって話なんすけど、ここで大事なのは「じゃあ礼儀って何?」って話しで。
礼ってのは、辞書的には「社会秩序を維持するために守るべき規範」という意味です。なので、非礼や失礼というのは、「社会秩序に破壊的に作用すること」なんすね。
礼は「社会秩序を維持するために守るべき規範」ですが、じゃあそのためのルールブックがあるかっていうと、大抵ないんすね。だから礼の有無は、あくまで主観的評価によるのです。まあ、人間って似たような感覚持ってるので、礼の形はぼんやり似てはきます。しかし、完全に同じではないです。
だから、ある人が「礼を尽くした」と思っても、別の人からは「失礼だ」ってなることもあるんすね。そういう状況で何が起こるかっていうと、強い攻撃力を持つ権力者の思う礼に、他の人が合わせていくスタイルになります。権力者は一体、どういう態度を好ましく、長く付き合いたいと思ってくれるのか、ということを弱い側は一生懸命探る必要が出てきます。忖度はこうして発生するんすね。
しかし、それは暴君の発生を許します。暴君は俺の思うとおりにせよと言い出すので、じゃあここで維持される社会秩序ってなんだっていうと、暴君の恐怖支配なんすね。それは現代でいうなら、いわゆる「お気持ちヤクザ」ってやつが近いかもしれません。
で、その恐怖支配ベースの秩序ってのも、あるにはありますが、社会の維持のあり方としてあんまりよくないとすると、「礼」を主観から客観に置き換えていく必要があります。それが「礼儀」っすね。「儀」ってのは、「真似るべき手本」って意味です。礼の手本を権力者のさらに上に置く。ここにおいて、何が有礼で何が無礼か、というのは、個人の主観を離れます。そうすることで、権力者が「俺の思う通りにせよ」に向かい暴君化するのを防ぐ。人治主義から法治主義へ。感覚主義からプロセス主義へ。役所的といえばそうですが、暴君による恐怖支配を制御するためよ知恵だともいえるんすね。
ある行いが、礼に叶うかどうか、というのを、感覚論で探る忖度はエネルギーを浪費します。だからこそ礼儀を作っていく必要があるんすよね。
で、この場合。他国の国土を買うよ、と呼びかけることや、その提案を馬鹿げていると評価することは、礼儀に定められた規範に外れるのかどうか。そういう行為に関して定めた礼儀が無いなら、失礼でも非礼でもなく、単に「ルールにない」ってだけなんですよね。で、もし礼儀があるなら、そこに基づいて判断する話になるっすね。
サポートされると小躍りするくらい嬉しいです。