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絵を描きたいと思っているあなたに

絵を描くのが好きだけど描けずにいる、絵を描くことに苦手意識がある、もしくはいつか描いてみたいけれどその機会がない、そんな方に今日の記事を読んでいただきたいと思っています。


私は、絵を描くのが好きです。

でも、そう言えるようになったのは、ごく最近のことで、今も自分の描く絵に自信はないですし、ときどきなんのために描いているのかわからなくなることもあります。

今日は、常日頃私自身も感じている、

“なぜ絵を描くのだろう?”

という問いに答えながら、この記事を読んだ方に、絵が描けるようになってもらうことを目指します。




それでは、まずこの記事を読むにあたって用意していただきたいものがあります。

用意するもの

・紙(なんでもOK。チラシの裏でも!)
・ペン
・ネット環境(この記事を読んでいらっしゃるのでたぶん問題ないと思いますが、動画が見られるネット環境を用意してください)
・15分
・素直な心


用意はできたでしょうか。


今日は、講師の先生をお招きしております。

もし、私が絵を描くことを誰かに教えるんだったら、こんなふうに教えたいなと思うような、とっておきの講義です。

下記のリンクに飛んで、ぜひ先生の授業を受けてみてください。

この講義を受けるのにかかる時間は15分。

この講義は、絵を描くというハードルを下げてくれます。
そして、絵を描く楽しさを思い出させてくれます。

絵を描きたいけど勇気が出ない
絵を描いて何になるんだろう
絵を描くのは嫌いなんだ…
そう思う方にこそ、受けてほしい講義です。

決して無駄な15分にはならないことを、私が保証します。

私は、絵を描くことが嫌になったとき、この動画を何度も観みました。
そして、この動画の途中で、観客が自分の絵を掲げたときに自然と笑みがこぼれるのを見て、私はこういう瞬間のために、絵を描いているんだということを思い出すのです。



絵を描くのは、本来楽しいものだと、私は思います。
そして、それは言葉だけでは伝えられないものを伝えてくれる手段にもなるでしょう。

先ほどの講義で描いた絵を、同僚や家族へのメモに添えてみてください。

きっともらった人は、いつもと違う反応をするでしょう。

その絵を描くのにかかる時間は、たぶんほんの数秒。
でも、そのわずかな時間で、あなたのユーモアや愛情が相手に伝えることができるかもしれません。


この記事はここで終わりにしてもよいのですが、私が芸術について語るこの連載を書くときには、ちょっとした前菜ではなく、フルコースを堪能してもらうつもりで書いています。

なので、まだお時間のある方は、このあともお付き合いいただけたら嬉しいです。


絵を何のために描くのか

絵を何のために描くのかという問いに対する答えは、先ほど少し触れましたが、まだ語り尽くしていません。

最初に言っておくと、まだその答えは見つかっていませんし、たぶん一生かけてその問いの答えを追求していくことになると思っています。

でも、今日は私の中にある、「答えのようなもの」を提示したいと思います。


それは、絵画の起源の伝承に関わるものです。

西洋では、絵画の起源について、芸術家たちがたびたび言及しています。
”どのようにして絵画が生まれたんだろう”ということは、芸術家が絵を描く上で、避けては通れない問題でした。

絵画の起源には、代表的な二つの考え方があります。

一つは、こんなお話です。

粘土で肖像を作ることがコリントスの街シキュオンの陶器師ブタデスによって発明されたのは、あの同じ土のおかげであった。彼は自分の娘のおかげでそれを発明した。その娘はある青年に恋をしていた。その青年が外国に行こうとしていたとき、彼女はランプによって投げられた彼の顔の影の輪郭を壁の上に描いた。彼女の父は、これに粘土を押しつけて一種のレリーフを作った。彼はそれを他の陶器類と一緒に火にあてて固めた。そして、この似像は、ニンフたちの神殿に保存されていたという…。

ープリニウス『博物誌』32巻42


もう一つは、こんなお話です。

詩人たちによれば、絵画を発明したのはナルキッソスであった、とこれまで私は友人たちに語ってきた。…技芸という手段を用いて、泉の表面を抱擁する行為でないとすれば、絵画とは何であろうか。画家は最初もっぱら太陽の作る影の輪郭を線でたどっていたのだが、ついには付加という手続きにより、その技芸が成長した。
ーレオン・バッティスタ・アルベルティ『絵画論』

ナルキッソスは、ナルシストの語源ですが、泉に映る自分の姿に恋をしてしまった若者のことです。


※二つの伝承は、ヴィクトル・I・ストイキツァ『影の歴史』(岡田温司、西田兼訳)平凡社、2008年から引用しました。


この二つの伝承は、美術史においてさまざまな解釈がなされてきたのですが(それについては、上記のストイキツァの著書を参照ください)、ここではそれらの解釈には触れずに、絵画を何のために描くのかということを、この二つの伝承から考えてみたいと思います。


はじめの伝承における絵画は、愛する人が遠くに行ってしまう前にその姿を恋人が写し取ったものでした。二つ目の伝承において、絵画とは、「技芸という手段を用いて、泉の表面を抱擁する行為」でした。

この二つの伝承の根源にあるものを、すごく単純化すると、それは他者への愛と自己への愛だと思うのです。
恋人を想う気持ち、そして泉に映る自己を想う気持ち、それらが絵画を描く動機になっているのだと思います。

私が絵を描くときも、誰かを想って、誰かに喜んでほしくて描きます。
でも、その一方で、誰かに認められたい、誰かに愛されたい、自分を表現したい、そんな欲望もあります。

たぶん、そのどちらか一方で絵を描くということは、私にはできません。

絵が描きたくても描けないとき、私はどちらかに偏ってしまっていることが多いです。
どちらかといえば、後者に偏りがちです。
でも、ふと誰かに喜んでほしいんだったと思い出したとき、驚くほど簡単に絵が描けるようになることがあります。

すべての人に当てはまるわけではないかもしれませんが、絵が描きたくても、描けなくなったときに、このお話を思い出してみてください。



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私がこの記事を書こうと思ったのには、いくつか理由があります。

まず、今週、映画『ある画家の数奇な運命』を観て以来、何のために描くのかという問いが頭の中でぐるぐるとしていたから。

また、私の記事を読んで、子供のときのように絵を描きたくなったと言ってくれた方がいたから。

そして、絵を描けなくて悩んでいるあの子に、伝えたい言葉を探していたから。

今回の記事も、自分のために書きながら、他者のことを想って書いています。

おせっかいかもしれない。
そう思う気持ちもあったのですが、私のおせっかいを優しく受け取ってくれた人に背中を押してもらって、私はこの記事を書こうと決めました。


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最後に、このフルコースのデザートを添えます。
別の記事でも紹介したことがあるのですが、絵が描けないときに、この曲を聞くと、自分が絵を描く意味を思い出せるのでもう一度紹介します。

YOASOBI『群青』より一部抜粋

何枚でも
ほら何枚でも
自信がないから描いてきたんだよ
何回でも
ほら何回でも
積み上げてきたことが武器になる
周りを見たって
誰と比べたって
僕にしかできないことはなんだ
今でも自信なんかない
それでも

https://www.uta-net.com/movie/290004/ (最終参照日2020/11/22)



最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。
この記事を読んでくださった方が、絵を描きたいな、絵を描くって楽しいことなんだなと思っていただけたら、私はとても嬉しいです。



この記事は、Art Saryo物語の連載として書いています。
この連載が気になる方は、下記のページをご参照ください。