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5月の日常

晴れた日の図書館


晴れていたある休日、私と夫は近所の図書館へ行く。

こんな天気のいい日は遠くへ出かける人が多いのか、いつもよりも図書館は空いていた。いつもは貸出中の雑誌『天然生活』も、その日は1冊本棚に残っていた。

屋内とはいえ、晴れた外の空気が図書館の中にも満ちていて、本の森のなかを歩くのは気持ちのよいものだ。

雨の日の湿っぽい空気と雨の音が図書館には似合うような気がしていたけれど、晴れの日の図書館もいい。

図書館からの帰り道、少し遠回りをして、ネモフィラが咲く丘に行く。

夕陽に照らされながら、小さな青い花がそよ風に揺れていた。

青というのは、本当に綺麗な色だ。


森を歩く

最近、お昼休みに森を歩いている。

森といっても、熊が出るような野生の森ではなく、森という名のつく整備された公園だ。

お昼休みは1時間あるが、私は15分もあればお弁当を食べ終えてしまう。
これまで残りの時間はスマホを見たり、昼寝をしたりしていた。

しかし、最近、少しおなかがぽっこりしてきたのが気になっていた。以前はいくら食べても太らない体質だと思っていたが、最近は食べたら食べたぶんだけ肥るという、子どもの頃には信じられなかった大人たちの言葉が理解できるようになってしまった。
職場の先輩方が、皆何かしらの身体の不調を訴えていることも気がかりだ。いまの生活をつづければ、私も将来いろんな不調に悩まされるのだろう。

森を歩くのはせいぜい10分ほど。でも、そのたった10分でおどろくほど、身体が軽くなる。木漏れ日を浴びながら歩いていると、公園で遊ぶこどもたちの声が聞こえてくる。悩んでいたことが、ちっぽけに思えて、心の中にも爽やかな風が吹く。昼寝をするよりも、頭がしゃっきりするような気がする。

まだ肝心のぽっこりお腹に変化は見られないが、そのうち凹んでくることを期待しよう。


0勝5敗

ここ数年、肌の不調に悩んでいた。
そうか、これがお肌の曲がり角。
と受け入れようとしたものの、鏡を見るたびに少し憂鬱になる。

とはいえ、もともと、ぴかぴかの肌だった時期などない。いつも何かしらの肌の悩みを抱えていた。ストレスが肌に出やすいタイプなのだろうと、半ば諦めていた。ニキビ、じんましんには長いこと悩まされたし、帯状疱疹も20代はじめになった。

でも、できるだけ、きれいでいたいと思うちっぽけな乙女心はもちあわせているのだ。
ほわほわの笑顔をふりまく夫の隣にいるのに、ふさわしいくらいには。

近所にある美容皮膚科に初めて行ってみた。肌荒れに悩んでいることを話すと、漢方薬を勧められる。劇的に変わる訳ではないけれど、少しずつ肌の調子が整っていくというお医者さんの話を信じて飲んでみることにした。

それから、肌診断もしてもらう。肌診断によれば、私の肌は糖化が進んでいるらしい。糖化という言葉は初めて耳にするものだった。糖化を防ぐには、ピーリング治療や院内処方のビタミンの美容液が効果的と言われたが、とりあえず糖化という言葉だけを覚えて家に帰ってきた。

調べてみると、糖化を防ぐには、血糖値をあげる食材を食べすぎないこと、血糖値を急にあげないこと、ストレスを減らすことが重要らしかった。

具体的な対策としては、食べるときは野菜から食べる、果糖ブドウ糖液糖の入ったものをできるだけ避ける、よく噛んで食べる、よく寝る、おやつを控える、などがある。

できるだけ生活のなかに取り入れてみようと思ったが、ひとつかなり難しいものがあった。
「おやつを控える」だ。
甘いものを急に食べると、血糖値が急に上がるからよくないらしい。

はじめの1週間は、0勝5敗だった。おやつを食べたいという欲望に勝てた日が1日もなかった。だって、おいしそうなお菓子が学芸室にはたくさんあるんだもの。このおやつのおかげで、糖化は進むし、私のおなかの脂肪もすくすく成長してきたわけだ。

次の週は、4勝1敗になった。漢方薬を食間に飲むのだが、おやつをがまんしていると、この漢方薬の甘さがおいしいものに感じられてくる。

あまり根をつめて、かえってストレスになってもいけないから、お休みの日にはおやつを許すことにした。

皮膚科に通い始めて3週間ほど。少しずつ肌の調子が良くなってきたような気がする。


うなぎと蕎麦

休みの日、何かおいしいものを食べたいと夫に話すと、おいしい蕎麦とうなぎのお店があるから、そこに行こうということになった。以前職場の人たちと遊んだときに、教えてもらったお店だという。

蕎麦とうなぎ!
なんと魅力的な組み合わせだろう。
私の好きな食べ物は、かわいげのないものばかり。でも、好きな食べ物にかわいさなど必要ない。

蕎麦とうなぎのセットを頼む。はじめに蕎麦が出てきてびっくりする。普通に一人前の量なのだ。蕎麦はたしかにツルツルさらさらと食べられる。そうは言っても、おなかは着実に満たされていく。これを食べた後に、いったいどうやって、うな重を食べるのだ。

と思っていると、うな重が運ばれてくる。こんがりと、おいしそうに焼けたうなぎ。あまじょっぱいタレの香り。箸を入れるとふっくらほろりと崩れる。

ふう、おいしい。タレの味はあまり濃くない。うなぎの素材のおいしさを引き立てるようなやさしい味付け。

おなかいっぱいなのにおいしい。
いや、おなかいっぱいだからこそ、こんなにおいしいのかもしれない。

おなかが空いていたら、きっとガツガツと食べてしまうもの。満たされたおなかの上に、ふわりふわりとうなぎとごはんが降りつもっていく。

しあわせとつらいは漢字で書くと紙一重なんだよな、なんて思いながら、完食した。


ツンデレとは

私にはあまり理解できないものがある。
たとえば、ギャップ萌え。たとえば、ツンデレ。

私はあまりギャップのない人が好きだ。やさしそうでやさしいひとが好き。かわいらしくてかわいい人が好き。

他人の恋人や夫を、やさしそうな人だねというのはやや悪口というのをどこかで読んだことがある。やさしそう=イケメンではない、ということらしかった。そんなつもりで言う人なんていないだろうに。

そういえば、昔読んでいた漫画では、「おまえ」呼ばわりしてくる無愛想なイケメンがときどき見せる優しさに、主人公はキュンとしているようだった。このイケメンはたいてい黒髪の男だ。
そんな主人公を揺さぶるのは、ちゃんと名前を呼んでくれる、つねに優しい男だ。金髪で描かれることが多い。
私は漫画の中では報われない、この手のタイプが好みである。

「おまえのことなんか、別に興味ねえよ」という無駄な抵抗を示す男よりも、「〇〇ちゃんのことが好きだよ」と素直に言ってくれる男のほうがずっと魅力的ではないか。なぜいかにも面倒くさそうなほうを選ぶのだ。
私はきっと主人公にはなれないタイプの女なのだろう。

そんな話を夫にした。
夫は言わずもがな、やさしそうでやさしい人だし、かわいらしくてかわいい人だ。
「好き〜!」と言いながら、ハグしてくるような人である。なるほど、たしかにこれではストーリーに深みが出ないのだろうな。

ツンデレってどういうこと?と夫に聞かれたから、「おまえのことなんか好きじゃねえよ」とか言ってくるくせに、たまにやさしくしてくるとかかな、と教える。

すると、夫は「ぎゅーって、しないよ!」と言いながら、私をハグしてくる。

ぎゅーってしているやないかい。
いやいや、ツンデレとはそういうものではないのだよ、と思ったが、夫にツンデレになってほしいわけではないのだった。


父、夢に出る

ある朝、父が夢に出た。
父が仕事中、大きな怪我をした夢だった。

林業の公務の会計年度職員になったばかりの父。心のどこかで、林業につきまとう危険なイメージを私が抱いているせいだろう。先日、映画『ある男』を観たばかりだった。

でも、なんとなく気がかりで、その日の夕方、実家に電話した。母が出て、すぐに父に代わってくれと話すと、母は電話の向こうで少し戸惑っているようだったが、父に代わってくれた。

夢にお父さんが出て、お父さんがけがをした夢だったから、不安になったんだ。と話していると、自分がひどく子どもじみたことを話しているような気がしてくる。最後は、ただの夢なんだけどさ、とちょっとおどけてみると、少し間があった。

「ももちゃんは、何も聞いてないんだよね?」と父が言う。なんのこと、と私が訊き返すと「実は、昨日仕事中にけがをしたんだ」と父が言い出すから、私は息を飲む。

「大丈夫、もう痛くもないし。仕事中といっても、父さんの不注意でさ。車のドアを閉めるときに、自分の頭にぶつけてしまって。いやぁ、こんなことをしちゃうなんて。父さんも、歳なのかない。でも、こんなこともあるんだね。夢でみるなんて。」

もう痛くはないこと、危険な業務をやらされているわけではなさそうなことに安堵しながらも、離れて暮らすもどかしさも感じた。

古典を読んでいると、夢は見ている側ではなく、夢に出てくる側の想いの強さによって出てくるものと言われる。令和の時代に生きる私だが、父は昨晩不安になって、娘に会いたいと思ったのではないか、とちらりと思った。

ももちゃんから電話があって、お父さんは元気になったみたいだよ、と母から言われ、少しほっとした。


結婚記念日

5月は記念日が2つある。ひとつは、私たちが付き合いはじめた日。もうひとつは、結婚記念日。今年は付き合いはじめて10年、結婚して3年となる。

特別なことをしようと考えてはいなかったけれど、二人ともおやすみの日だったから、東京に出かけた。

まずは、都現美へ。都現美は、外から見ると広くて大きくて威圧感があるけれど、入ると突き放した冷たさというよりも、包まれる安心感がある。

「翻訳できない わたしの言葉」展では、美術館ってこういう場所であれたらいいなというじんわりとした希望と、少し重たい使命感を覚えた。
重たいというのは、メッセージが、ということではなくて、学芸員として、自分はちゃんと向き合えているだろうかという、責任として。

検索してわかったつもりになれる今の世の中で、わかったつもりになっては見落としてしまうことがあるはず。美術館というのは、ただ美しいものを並べるだけの場所ではなくて、社会に疑問符のついたメッセージを投げかけること、通過するだけでなく立ち止まらせることができる場所なのだ。

昨年の「あ、共感とかじゃなくて」展と、展示室を出たあとの感覚が似ていると思ったら担当は同じ学芸員さんのよう。

いったい、こんな展示をどうやったらできるようになるのだろう。
学芸員になって、いろんな学芸員さんとお仕事するようになったけれど、本当にいつまで経っても、追いつけるような気がしない方ばかり。
これからも、たくさん打ちのめされて、足掻いていくしかないのだろうな。

都現美のサンドイッチ屋さんが好き。前に来たときは、サバフライのサンドイッチを食べた。今回はアジフライ。たかがサンドイッチと侮ることなかれ。おいしいサンドイッチは、ごちそうなのだ。

美術館を出て、向かった先は、文フリ。

会場は、異様なほどの熱気に包まれていて、圧倒される。

目当ては、おだんごやさん。あやしもさん、くまさんには、この前微熱カフェでお会いしたから、見つけて安堵する。おだんごさんには、はじめまして。でも、もうそのまんま、おだんごさんでしかない。

おだんごさんは、ぎゅっとハグしてくれた。バクゼンさんに見せたいと言って、私とぺこりんと、3人で写真を撮る。お店を離れるときぺこりんに、もういいの?と聞かれたが、お会いできた感動でいっぱいで、特に長い話はできなかったけれど、満足してしまった。

もっといろいろ伝えたいことがあったような気はするけれど、きっとまた会えるもん!と勝手に思っているのだ。
(でも、あの日あの場所にいたnoterさんがたくさんいらしたようで、お会いできなかったことはちょっぴり心残り。)

おだんごさんに会えた喜びで、ほくほくと向かった先は、羽田空港。どこにも飛ぶ予定はない。でも、空港に漂う高揚感を吸いにいった。そんな目的で向かう人は少ないかもしれない。

空港にはもうひとつ目的があった。それは、ピーロートのワインを呑むこと。

はぁ。おいしいワインは水のように呑める。すーっと、なめらかに、甘さをはらんだつめたさが、身体をひたひたと満たしていく。ふくよかな甘さとすっきりとしたのどこし。
たくさん試飲もさせてもらった。

ふんわりほろ酔いになったところで、隣にいた夫に「結婚3周年、おめでとう」と言われる。そうだった、朝から楽しいことがたくさんあって、おめでとうと言うのを忘れていた。

ふわふわと幸福なきもちで電車に揺られて帰路につく。

電車の中で、おだんごさんの本3冊を読み切った。
私はおだんごさんの文章をかなり読んでいると勝手に思っていたけれど、初めて読むものもたくさんあった。

私は、この本を読む前は、おだんごさんの文章を紙の本で読むイメージがあまりできていなかったのだと読み終えてから気づいた。おだんごさんの文章の軽妙なユーモアや含蓄に富んだ名言たちは、さくっと読めるnoteのほうが合っているとどこかで思っていたのかもしれない。

だけど、それは大きな間違いだった。読み切った、と書いたけれど、これはこれからも何度も読み返したくなるものだと思う。光る画面では何時間も読みつづけるのは難しいが、光らない紙面ではこうしておだんごさんの文章に何時間でも浸れるのだ。おだんごさんの文章は、光らない紙面上でもきらりと光り輝く。

そして、おだんごさんの文章には、軽やかさだけではない、ずっしりと詰まった愛の重さがある。

おだんごさんのために寄せられたnoterさんたちの文章も、おだんご愛に満ちていた。

私の好きな曲に、こんな歌詞がある。

与えられるものこそ 与えられたもの 
ありがとうって胸を張ろう

藤井風「帰ろう」より

おだんごさんが与えてくれるものは、きっと誰かがおだんごさんに与えたものなんだと思う。それをおだんごさんは、また誰かに与えてくれる。そうやって、愛が循環している。それは一見軽やかで、ちゃんと愛の重さがある。

おだんごさんの本にはたくさんの「ありがとう」が詰まっていた。

おだんごさんの文章を読みながら、私もおだんごさんのように、愛を与えられる人になりたいと思った。


3冊目を読み終える頃、最寄り駅に着いた。電車の中ですやすやと眠りつづけていた夫を起こし、電車を降りた。





最近、文章が書けない、とひそかに悩んでいた。

でも、書き始めたら、あっという間に6,000字。
書きたいことがたくさんあってまとまらなかったようだ。

いくつかに分けて書いたほうが読むほうにとっては読みやすいのだろうけれど、勢いで書いてしまった。きっと読みにくかったと思う。

最近、これまでにもたびたびやってきた「なんのために書いているのか」という問いが頭の中でぐるぐるとしていた。

創作大賞に向けた熱意のこもった文章や、文フリの熱量に気圧されてしまったのかもしれない。こんなにも、書くことに情熱を傾けている人たちがいるのに、私はいったいどうして書いているのだっけ、と。

そんな鬱々とした思いを抱えていたとき、職場で、「如月さんの文章、好きです」と言われた(もちろん、如月桃子としての文章ではなく、仕事で書く文章について)。

あいかわらず、なんのために書いているのかは、わからない。

ただ書いている。

それでいいじゃないか、と何度目かわからない開き直りをした。
それは、たったひとりの好きという言葉のおかげで。

そして、図々しくも、自分の文章を好んでくれている人がひとりではないことも、私は知っているのだ。noteのおかげで。

これからも、ただただ書くぞ、と誰にともなく、ここで宣言しておこう。



開き直ったら、すっきりとして、やりたいことがむくむくと膨らんできた。

まず、コーヒーを淹れて水筒につめ、焼きたてのチーズパンを買って、青空の下、木陰に椅子をおいて食べる。こんな休日を過ごしたい。

それから、大きな本屋さんで、13,000円分の本を買う。今年の分の福利厚生のレジャー費を全部本に注ぐのだ。

インテリアを整えたい。リビング、ダイニングはだいぶ好みに仕上がってきたから、次は寝室を整えたいなぁ。絵がほしいんだよなぁ。シンプルすぎるから、もう少し彩がほしい。

それから、空想の本屋さんをやってみたい。自分の好きな本をセレクトして紹介する本屋さん。リクエストに応じてセレクトするのもいいなぁ。

勉強会もしてみたい。勉強会といっても、勉強するのは集まる人ではなく、私自身。美術の面白さを伝える勉強をして、学んだことを発信する。私から課題を出しつつ、それに取り組んでみたいという人がいれば、自由に取り組んでもらう。コメントに寄せられた質問の答えを探すためにまた私が勉強する。開かれたnoteという場所だからこそ、やれること、やってみたいことだ。


先ほど、熱量に気圧されたと書いたが、熱は私の中にもありそうだ。

少しずつ、私の中に宿る火も灯していこうっと。





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