「好き」のカケラを求めて
この画家が好きですか?
修士論文の口頭試問で訊かれた、そんな質問にヒヤリとした。
そう私に尋ねた先生は、口頭試問の試験官のうち唯一、私が学部生のときからお世話になっている先生だった。
「非常によく書けている。労作ですね。あまりじっくりと読む時間がなかったけど、面白いからすらすら読めました。」
そんな先生の言葉に安堵していたとき。
「でも、どうしてこの画家なんだろう。ということが、やっぱり気になる。何か本当はもっと別の関心があるんじゃないか。そんな気がする。私の勝手な思い込みかもしれないけれど。」
そう前置きをしてから、先生はこの画家が本当に好きか尋ねた。
先生には、全部見透かされているんだ。
そう思ったら、恥ずかしくなって、必死に言葉を探した。
この画家について研究するのは問いが立てやすいと感じたからで、この画家が一番優れていると思っているわけではない、と答えた。本当は、この画家より好きな画家がいくらでもいることも正直に話した。
先生はそう答えたら納得してくれた。
そのときの私の答えは、嘘ではない。
だけど、それが私の思っていることすべてではなかった。
私の関心は、専門的な研究から少し離れている。一つの画家や時代について深く深く追求していくことよりも、一般の人にも美術の面白さのエッセンスをわかりやすく伝えたい。
そうは言えなかった。
先生たちのような研究者が深く深く追求してくれるから、私は美術の面白さのエッセンスを学べたのだ。
研究を否定したいのではない。
私は、一度社会に出てから研究の道に戻ってきた。
学部生の頃は、一体この授業が社会でなんの役に立つのだろうと思いながら、漠然と受けた。
けれど、久しぶりに受ける授業では、研究の楽しさ、そして研究の尊さをひしひしと実感した。
その一方で、一つの時代、一人の画家に拘ることが、少し苦痛だった。
好き、という理由で研究対象を選ばなかったからかもしれない。
やっぱり「好き」に敵うものはないのだろうか。
私は、「サンドウィッチマンと芦田愛菜の博士ちゃん」とか「マツコの知らない世界」に出てくるような人たちを見ていると、ときどき羨ましくなる。
私にもそんな熱意があったらいいのにな、と思う。
けれど、たぶん心の底では、そんな風に何か一つに心酔したいとは思っていないかもしれない。どこか自分のなりたい姿とはちがうような気もする。
私は、好きの気持ちを何かに注ぎ込みたい、というよりも、好きのカケラを集めたいのだと思う。
でも、そんなことができるのかよくわからない。
嫌なことから逃げているだけのような気もする。
だけど、ちょっと試してみたい。
まだうまく言えないけれど、そんな気持ちだ。
うまく自分の気持ちが整理できていないときに言語化しようとするとこうなってしまうのだなということが身に染みた、#1ヶ月書く習慣のDay14。
もう少し考えがまとまったときに、また文章にしてみよう。