私にとっての転機
幼少期、度々母はこんな話を私にした。
「のん猫。が産まれる時、男の子だったら良いなと思ったら女の子でがっかりした。」
「自分以外は全員B型だったから、お母さんと同じO型だったら良いなと思ったらB型だった。」
もしかしたら、母が笑いながら話す姿で思い出せるのは唯一この話をするとき時だったかも知れない。
母は笑い話として話したのだろうが、子供の私にとっては、だからお母さんは私のことが好きじゃないんだ、という根底の位置付けとなった。
小学4年生の確か春休みだったと思う。
母と京都へ旅行へ行くことになった。
母は幼い頃、舞妓さんにずいぶんと憧れていたらしく、京都へ行ってみたかったそうだ。
何日の旅行だったのか、観光はどこへ行ったのか、目的は母が行きたいところを周る旅だったので、あまり覚えてはいない。
その旅行の観光で思い出すのは、嵐山の竹林を人力車で移動してワクワクしたことくらいだろうか。
その旅行の中での旅館での夜のことだった。
京都のローカルテレビで、京都の山奥の小さな集落での子供の山村留学についてだった。
どうやら私と同い年の学年が翌年に3人になってしまう為、廃校の危機で山村留学制度を取り入れようとしている、というような内容だった。
母はそれを熱心に見て、メモを取り、そして私に「明日ここへ行ってみようか?」と言ったのです。
前回の記事に書いた通り、母の望む答えを言うのが習慣となっていたので、特に何も考えずに「うん」と答えたでしょう。
当時の私は母の前ではなるべく感情は出さず、笑えと言われれば笑い、質問にはだいたい「うん」しか言ってなかったと思う。
母は、思った通りの返答でないと怒るのに、私がなんでも「うん」と言うことにも怒りを覚えたようで「ちゃんと自分の意思を持ちなさい」などとよく言われたのを覚えている。
ただ、もうどうして良いかわからなかった私は、母の機嫌を損ねない為だけを考えて生きていたので、自分で何かを考え選択をするということがもはや出来なくなっていた。
翌日、その京都の山奥の集落までタクシーを使って、おそらく2時間半〜3時間ひたすら山道を通って行った。
乗り物酔いが酷かった私は、くねくねと曲がる山道の途中で、何度も車を止めてもらい、外で吐いたのを覚えている。
ようやく到着すると、360度山に囲まれ、茅葺き屋根の家の並ぶ小さな集落があった。
そして、その集落にある小学校でタクシーを降りた。
春休みで休校中にも関わらず、教頭先生が出迎えてくれ、応接間のようなところで、母と教頭が話しこんでいるのを横に暇をしていた。
どんな会話だったのか、正直覚えていない。
ただ、翌年から私はこの小さな町に住み、この小さな小学校に通うことになったのだった。
小学生4年生までの日々は、私にとってあまり記憶には覚えていることが少ない。
あっという間の1年が過ぎ、小学5年生の春、私は京都の山奥のとあるご家族にお世話になることになり、山村留学の日々が始まった。
次回は、その里親さんとの日々について書こうと思います。