あの時こらえ続けた痛みを一番表現する語彙を見つけたので書き殴っていく

私は、いじめっ子達を呼び出し一人三十分かけて話し合ったことがある。それは2年前の春で、中学一年生の時である。散々言われたことがまだ小さなガラスの欠片をまとっているみたいに体にまとわりついて、なにをしていても辛かった頃。あの時の私は疲れきっていて、それでもどうにか生きていた。あんないじめのことなんて早く忘れてしまいたいと思う反面あいつらなんてどこかで死んでしまえと思い、そんな自分を呪っていた。そんな中、突然にやってきたアイツらへの説教チャンスだった。正直同じ酸素を吸いたくなかったけど今だと思って場を作ってもらった。あの場に集結したのは最後まで分かり合えなかった担任と、私の母と、常に空回りしている学年主任。そんな場所にアイツらを呼び寄せた。いつもならいくらでも恨み言が言えたのに、愚かな私は許すことが美徳であり許すことが私の幸せに繋がると盲信していた。それはどんな理由があっても殺せば罪になるということを教えられ続けた結果なのかもしれない私の愚かさだった。許すことはコミュニケーション上で一番大切なのだと、そんな綺麗な言葉を信じていた。そんな甘い考えだったから前日の夜は何も言うことが見つからなかった。ただ腑抜けてなぜやったのかを聞いた。学習態度が悪かったから、本をいつも読んで時間に遅れていたから、等など。私は聞いていて、は?と言いたい気持ちになった。必死にこらえた。今考えると本当に馬鹿みたいだ。なんで堪えてしまったんだろう。私が彼に何をされたことが一番辛かったかと伝える時間になった。私は、死ねと毎日(言われすぎて正しいことは分からないが、後期からほとんどの悪口は死ねだった)言われるのが、顔の美醜について言われるのが、私の所持物に勝手に触れられ、雑菌に触れてしまったと大声で触れ回られるのが嫌だった。出っ張った前歯を動物に例えられるのが嫌だった。貶される度、何かに例えられて笑われる度、私は嫌いなものが増えていった。動物を含めて例えとして出された全てに、私は少し距離を置いている。イメージの損害である。あれらにはなんの罪も無いのに。その事を言うと、彼は機械のようにごめんなさいと繰り返した。ただただ腸が煮えくり返った。
そんな謝罪ごときで許されるのならば、今すぐお前を断頭台に立たせてギロチンの刃を落としてやりたい。そして言うのだ、機械的に、お前の遺体に向かって、「ゴメンナサイ」と。それで許されるつもりなのならば私のたった一つの過失だってこいつは許すのだろう。私は怒りと苦しみと悲しみに震えて、どうにか「次同じことを他の人に言ったら、私はあなたを殴りに行く」と言った。彼がなんと答えたのかは覚えていない。ただ、そのあと学年主任が私の懐の深さについて話し、こんなことで許されているのをありがたく思えと彼に言った。私は声を抑えきれず泣いた。有難く思われるよりも、今すぐ絶望してくれればよかった。しかし彼は一人目だった。私はよく多人数に虐められていた。彼は中学でのその一番初めの人間であり、次はその相方に同じことを話した。理由はまたくだらなかった。私の名誉のために言うが、先述した本を読んでいて遅れる、というのは私があまりに熱中して読書している為にチャイムに気づかず、いつの間にか授業が始まっていることが多々あった、その事である。孤独だった学校生活ではそうする事でしか自分を守れなかったが、それは違反行為である。私は一番最初にいじめてきた彼らを先生に言いつけた際その事を理由として挙げられた。そんな理由はその場しのぎの建前なのは分かっていた。しかし気分が悪かったので、そのあと私は本を読まなければされないと信じ縋るようにして本を読まなくなった。学校ではほとんど本を読まず、ついにはあれほど熱中していた読書趣味から遠ざかった。得たものは孤独と、さらによく耳に届くようになった彼らの嘲る声だった。誰も制止しないクラス内では特によく響いた。それを許されている環境なのが気に食わなかった。クラスでカーストの高い女子が、男子におちゃらけて言われた一言を先生に言いつけたことがある。言いつけられる前に一応囲いの女子たちが止めていたものの、私はそれを思い出した。この、さも当然と言うような気持ちの悪い雰囲気はなんだろう。なんでこの環境に私しか異議を唱えていないんだろう。私はあの時、誰かがこの環境に異議を唱えて、この空間は狂っているのだと、私が傷ついているのは当然で、私の普段の生活がどうであろうと関係なくこれは行けない事なのだと言って欲しかった。なんでこの人が言われているんだろうと疑問を持って、先生にいいつけるなりして欲しかった。それとも、あれはクラス全体でのレクリエーションだったのだろうか。クラス内でもっともカーストが低く、顔が醜く、賢くなく、いじめても誰も何も文句を言わない女を虐めるのはさぞストレス発散になったのだろう。私はそんな考えを抱えていてもなお、自分のくだらない愚かさのために何も言えなかった。2番目に呼びつけられた奴は、最後私に学校に通って欲しいと抜かした。行かせなくしたのはどっちなのだろう。中学で初めて会った見ず知らずの男児に延々と自殺に追いやられるのがどういう事なのかわかっているのだろうか。傲慢の塊のような言葉である。あのいじめで1番最悪だったのは、免罪符があったことだ。私は忘れ物が多い。授業についていけず頭をひねることもある。当てられても答えられず時間を浪費することも、熱中して授業が始まっていることに気づけなかったことも何度もあった。そんな時は私一人に時間を割かず授業が進んでいたが、見ている側としては不愉快極まっていたのだろう。私は生きるのが下手だ。嫌いな人間にばかり集られてしまう。私は無罪だと大声で叫べないのだ。それは事実があるからでもあったし、私何も悪くないのにアイツらが私に死ねって言ってくるんですと厚顔無恥を盾に言えるような人間でもなかったからだ。

私は羨ましかった。女子達が休み時間ごとに三人四人で集まってどこかへ行くのにはいつか私もあの輪の中に入れたらなと思うくらいには羨ましかったし、男子たちが楽しんでやっているドッチボールに入っても誰にも突っ込まれない程度には仲良くなりたかった。普通の子供たちが、普通に過ごしてやっているどれもが私にはできなかった。バトミントンも一人では出来ない。ドッチボールの線を引いても、ゴールに向かってサッカーボールを蹴ってみても、そこに騒がしさがなければなんの意味もなかった。そんな小学生時代をすごして、中学生生活では友達が欲しかった。友達の誕生日を祝ってみたかったし、いとこの姉のように、誕生日ケーキの隣に友達からのプレゼントが並ぶ、あの光景を見てみたかった。羨ましくて仕方がなかった。

しかし、いじめられなかったとしても、私が友達を作れたかどうかは分からない。中学校生活が始まって一日二日で、小学生時代言われた中で最も嫌だったバカにされたあだ名で呼ばれ始めたのだ。他校の男子も、小学生時代からの男子もそう呼んだ。小学校時代散々作られたデマや噂が中学生生活にも影を落とした。クラスでは仲良くなれそうだった子も私の過去を知った途端私を避けるようになり、全体で私を避ける雰囲気があった。クラスの雰囲気も、避けられたことも全部私の被害妄想だとしても、呼ばれた事は確かだった。そして私は不器用なミスと継ぎ接ぎの成功を重ねるような中学校生活を続けた。そんな日々の中で友達を作れたのか、それは定かではない。その後私はまた一人孤独に過ごしある日突然他校出身のクラスメイトに虐められることとなった。

あんな幼稚な語彙で傷つけられてしまったのだ。
ただのお遊びでこんなに傷つけられてしまった。あの時から私の精神は変に大人びていた。あの時読んだ本の中には残酷な表現を含むものもあったし、きっと今読み返したらあいつらの言葉より残酷な言葉はいくつもあるだろう。
それに、私だって悪い所は数えきれないくらいあったんだろうし。正直学校ではみんな敵だと思ってたから常に気を張ってピリピリしてたし、まあ今言うならば完璧に壁を作ってた黒歴史だ。でも、そんな時があったら今があるので、まあ、気付けただけ準優勝になる。

こんなnoteを書いたのは、あの時の感情が溢れちゃったからだ。苦しくて苦しくて辛くて、悲しくなってしまった。
次もこんな廃材アートみたいなノートを書くかもしれない。その時は、また生きるのに疲れたんだなと思ってみてください。

まとめ 言いたいことを我慢しない 我慢すると2年持ち越す羽目になる 辛くなったらノート書くこと

終わり。

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