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父,昭治。

私の一番古い記憶は父の葬式である。彼は私が2歳になる前に亡くなった。私は親戚の皆が正装で集合しているのにはしゃぎ、でんぐり返しを披露していたそうだ。そこは記憶がないが。父はラーメンの出前配達中に倒れた。脳いっ血だった。1週間の昏睡の後に亡くなった。パパっ子だった私が「お父さんは?」と聞くと周りの大人達は「良い子にしてたら帰ってくるよ」的なぼんやりした事しか言わず、お葬式の時には「お父さんは星になったんだよ」とまたしてもハテナ?なよくわからないことを言った。「お父さん今病気で入院してるんだよ」と短く明確に伝えてくれれば小さくても分かったんだけどな〜と思う。なので私は幼児にもしっかり話をしている。

父はリアカーでチャルメラを吹きながらラーメンを売り歩く事から始めその後一番と言う自分の店を持った男である。なんでも美味しかったらしい。ラーメン屋ではなく、大衆食堂。カレー(スパイスから炒って作る本格派)も丼物もあった。毎朝鶏ガラでスープを仕込んだ後は自転車の子乗せに私を乗せてぶらっとでかける。漁港に立ち寄り友人から魚をもらったりした。店内にはレコードステレオが有り良い曲がかかっていたそうだ。今で言えばシェフ兼DJ。秋田出身の男らしい性格で、植木と石を愛で、のど自慢大会優勝者。揉め事に話をつける町の顔的な事もしていた。私は子供の頃から周囲に「一番ののんちゃん」と屋号で呼ばれて育った。その度に良い屋号をつけてくれた父に心で感謝した。

これは母から私が聞いた話。ハネムーン先の温泉のお土産店で、父は先が引っ込む小刀のおもちゃを買いふざけて浴衣の胸にしまって歩いた。するとそこにチンピラがホテルの廊下で肩がぶつかったといちゃもんをつけて来た。父は無言でチンピラの手にゆかた越しに刀をそっと触れさせた…。相手は本物だと思ったらしく「すみません兄さん、お見それしましたっ!!!」と謝りながら脱兎のごとく逃げ去ったそうだ。母の思い出話はいつも父がどれだけ優しかったか、どれだけ男らしかったかという話ばかりだった。お陰で私はロマンチックな夢見る女子に育った。

小さかった頃は毎年クリスマスイブに芸者さんが来た。夕闇が訪れた頃に我が家の前にタクシーが止まる。ライトがチカチカ点滅してとても綺麗だった。そしてとても美しい芸者さんが私と弟にプレゼントをくれた。私には女神様に見えた。普通はサンタさんが来るけど、うちには芸者のお姉さんが来るんだなとちょっと嬉しかった。「お父さんはとても素晴らしい方だったのよ…。いつまでも覚えていてね。」お姉さんはそう言った。彼女がしつこいお客に迫られて大変困っていた時に父が間に入って助けてくれたそうだ。

大人になって自分が親になってから昔の町に戻って子育てをした。時々路上で何人かの年配の方からランダムに「あんた、一番の娘さんかい?」と急に聞かれる事が有った。なんで分かるのか聞いてみると私の目がそっくりなのだそうだ。そして話し方。あんたのお父さんは良い人だったよ〜なんて聞いて嬉しかった。それとは逆に、あんたのお父さんに殴られたなんて人も1人いたな。ギャハハ。すんません。大人になってから、色々と父の話を聞いたり今まで自分で封印してしまっていた思い出が蘇って来て嬉しかった。

実家の棚からカセットテープ半分ほどの小さな古い録音テープを発見し(50年ものよ)デジタイズしてみたらなんとそれには父の自分ラジオショーが入っていた。テーマソングはハモニカで吹いていた。隣のお豆腐屋さんの4歳の坊やかずおちゃんインタビュー。その坊やも今年で54歳…。記念にコピーを渡すととても喜んでくれた。実は、私も小学生の時にカセットテープレコーダーで自分のラジオショーを録音していたのだ…。血、ですかね。

亡くなった後でも守護天使となり私の事を見守り導いてくれている父に私はとても感謝している。今は空の上で、父と母が2人で一緒にいるのを感じている。


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