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強い言葉を使えない、使いたくない理由。

日常生活において、またはSNS上において、強い言葉を使う人に出会うことがある。


この場合の強い言葉というのはネガティブな意味で、だれかを貶めたり、心を傷つけたり、相手を上から押しつぶすようにして、発言者の優位性を保とうとする言葉のこと。


文字をメインに表現やコミュニケーションがなされることの多いSNSと比べ、日常生活では言葉自体の強さに傲慢な態度や声を荒らげる様子などが加わったりして、そういう発言や場面を目撃してしまった時、当事者ではないのに心臓がギュッと握られたような気持ちになることがある。


感情を出して相手に思いを伝えなければならない場面もあるのもしれないけど、強い言葉である必要はないような気がして、そうした言葉が書かれたり話されたりしているのを目撃すると、心が少しざわついてしまう。良い子ちゃんぶっているのではなく、純粋に嫌なんだ。そういった類の言葉が。善人ぶった考えというよりも、どちらかと言えば攻撃的で、拒否感を前面に出した主義主張。


その言葉、本当に必要? 言っていて、自分で気分を害したりしない? と感じてしまうことが多々ある。


私は強い言葉を使うことが得意ではなくて、SNS上においても日々の生活においても、使うことはほとんどない。幼い頃にあったかな、というレベル。自分で記憶しているかぎりでは。


そうした苛烈な言葉を使うようなシチュエーションが日常にあまりないというのもあるし、そもそもそのような言葉の使用は避けたいと感じているのも大きい。使ってしまうことで、どこか自分のなかのハードルが下がってしまうというか、言葉に心が侵食されてしまう気がするというか。


激しく厳しい、人の精神に良からぬ形でダイレクトに響く言葉を使い続けることで、結局は自分自身の魂が汚れてしまうんじゃないか。自分というキャンバスを、徐々に徐々に黒く染めてしまうことに繋がるんじゃないか、なんてスピリチュアルな、たとえとして上手いのか下手なのかわからない言い方をしてしまうけれど、主張したいのはそういうこと。その強い言葉、意識していない形で自分自身を汚してはいませんか? ということを言いたかったわけなのです。はい。


SNSを眺めると、ニックネームというか仮名で登録している人も多く、本当の個人が特定されにくい環境であるのもあって、強い言葉を息を吐くように使っているユーザーの姿も多々見られる。


それが個人攻撃であれば名誉毀損だったり、行き過ぎた誹謗中傷に繋がることになるけれど、それとは関係なしに直接的な言葉をネットの世界に吐き出している人もいて、それを見るたびに、SNSでの自分も現実の自分の一部なんじゃないかな、と思う。


SNS上だから、ニックネームだからでは割り切れない同一性があるような気がして、強い言葉を使用するたびに、心がくすんでいくのは避けられないことなんじゃないか、と私なんかは思うのだけど、もしかしたら上手く分離して発言している人はいるのかもしれない。でも、それはそれで寂しいことではある感じがして。仮にもし、強い言葉を使わざるを得ない状態に追いこまれているのだとしたら、それはたぶん寂しいこと。

ただそれでも、苛烈な言葉で人の心を痛めつけていい理由にはならないのだけど。


書いている途中で思い出したけれど、人を傷つけたり、心を切なくさせてしまう言葉をチクチク言葉というらしい。言い得て妙だ。相手の心をチクチクと刺して、だめな形で気を引いたり、言った本人だけがスッキリしたり。


自分が小さい頃にもそういう子っていたな、と思うけれど、それを大人になってもやっている人が普通にいることに、少し悲しみを覚えてしまう時がある。


ああ、チクチク相手を刺すことで覚えた快楽にハマってしまったのかな、とか。チクチク刺すことで、自分に刺さったトゲの痛みを軽くしようとしているのかな、とか。


そのように色々なことを感じるけれど、最終的に抱くのは寂しさや切なさの入り混じった嫌悪感で、それはおそらく今後も感じ続けるのだろうし、自分がだれかをチクチク攻撃してしまわないためにも、感じ続けなければいけないことなんだろうな、と思っている。


単純な感情を単純な言葉で表現してはだめなのだ、きっと。強い言葉は、たぶん使うその人を弱くしていく。



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