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私の大切な石

真っ黒な楕円形ですべすべとした、手のひらにのる大きさの石がある。すべらか、なめらか、ひんやりと冷たくて、表面が詰まっていて、ほおずりしても心地よい。たしか小学校3年生くらいの時に、青森の祖父母の家に夏休みに遊びに行き、いとこたちと一緒に連れて行ってもらった山の中の、暗門の滝で拾ったもののはずだ。

 夏休みごとに、山や海、自然の多いところによく連れて行ってもらっていたのもあり、暗門の滝にたどり着く前後の記憶は曖昧だ。途中まで車で向かい山に入り登った先に、玉のような石が集まった冷んやりとした川と滝の下で、この黒い石に魅入られ、ものすごく特別なもののように感じて拾い上げたように思うのは、本当のことなのか、あとからぬり替えた記憶なのか。

 時々腰を痛めるおじいちゃんは、本当にあの時一緒にいただろうか。車で連れてきてくれたけど、一緒に山に入って滝まできたかしら。気をつけるんだよ、と言ってやっぱり滝のそばで水遊びをする私たちを見守っていただろうか。

 その場に一緒にいたかも定かではないのに、本当に暗門の滝で拾ったかもはっきりしていないのに、その石は、おじいちゃん、あんもん、つめたいみず、みどり、なつ、うっそう、おいしげる、せまりくる、はしゃぐ、いとこたち・・・そういうものが、どっと出てくる。おじいちゃんの家に持ち帰り縁側にころがして干しておいたら、うわあすごい綺麗なかたちだねって、おじさんとおばさんが言ったような、言わないような。

 こどもの頃から石が好きだった。そして「今も好きなものとしてカウントしていい」と3−4年くらい前から思うようになった。意識的に。なんでだっけ。なんでだろう。鉱物とか、地層とか、ジオパークとか、鉱物Barとか、そういうスポットをまわるようになった。機会があれば、石好きなんです、って人に言うようになった。石にまつわる活動をしている人やイベントは意外とたくさんあり、そういうところに行くのは面白いし楽しく、美しいものに出会え、知識も増える。

でも、本当は自分で見つけたい。探すために行くんじゃなくて、単純に自然の中に出かけて行き、その美しさを純粋に楽しんで、そこからびっくりするような宝物を見つけたい。自分の中にカチリとはまるような。この石は、冷んやりとした滝でそういう見つけ方をした石だった。

「子供の時に好きだったものを、好きなままでいい」

この石を子供の私は選びとった。そして大人になった今でも本当に美しいと思える。この石は私の感性を保証してくれる。そして、今はいない大好きだったおじいちゃんのいる、みどりとしずくと冷んやりとした空気の夏の記憶。その場そのままに、私を連れて行く石。私であり、おじいちゃんであり、青森の夏であり、暗門の滝である、石。

 私のほしい石。私の出会いたいものはこういうものなんだと、一番純粋で作為のない、これでいいのだと保証する、私を保証してくれる石。