少女だったあの頃の恋が一番透明で澄んでいた。
恋愛というものにかすりもしない生活を送ること十数年。
枯れた砂漠の木のように、潤いもなければときめきもない私の心は砂漠地帯を通り越して、蜃気楼が見えそうなほど。
世に溢れた【結婚活動】略して婚活という現代特有の社会現象。
この話題を見るほどに恋愛が始まる前に相手を選ぶなら、じゃあ恋愛って何よ、という思考が止まらない。
条件をつけて、ジャッジしながら相手を見定める。将来のことを考えて、色々なふるいに掛けながら相手を選び、また相手からも同じふるいにかけられて選ばれる。
そんな婚活を眺めていると、子供の頃はこんなこと(婚活が溢れる世の中)になるなんて思いもしなかったなぁとふと思った。
まだ社会のことなんて何も知らない、将来のことなんて全く考えてもいなかった子供の頃、目が合っただけで気になったり、隣の席になっただけで気になったり、そわそわしたり、ドキドキしたり、話しかけられると耳まで赤くなったり、教室という箱の中で無条件に好きになっていたあの頃。
気になるあの子の将来の年収なんて考えもしなかったし、どこの大学に行くとか、どこの会社に務めるとか、そんなこと一切考えずにただただ純粋に 『好き』 を感じて、過ごしていた少女時代。
本当に些細なことなのに、小さな仕草や目線であの子は私のこと好きなのかな、とか気になってるのかな、とか、女子同士の恋愛トークは尽きない。
毎日顔を合わせる限定されたコミュニティで男女が過ごしていれば、お互いを意識しないわけがない。だって、人間は本能的に繁殖するために互いを求めるように出来ているんだから。その為の準備ステージというか、異性を意識し始めるあの時期。色めき立つあの頃の恋とか恋愛。
学校の休み時間、帰り道、掃除の時間、小中高生の時に感じた、あの胸を打つ高揚感。
あの想いはただただ純粋で、透明で、澄んでいた。
多くの人は経験しているんではないだろうか。
教室の窓から見下ろして眺めていると目があったり、見計らったようによく出会したり。
バレンタインデーにはあげる勇気なんてないのにチョコを用意してみたり。
帰りにそのチョコを自分で食べて甘酸っぱい恋として終わらせてみたり。
想いを告げて実ることもあれば、自分の思い通りにはいかなくて心が掻き乱されるような苦しみを味わったり。
叶わない恋だと分かりつつ、好きという気持ちが消せなくて目で追いかける度に切なくなったり。
体育祭や文化祭、イベント準備中に距離が縮まって嬉しさで頬が緩んだり。
意中の人が自分ではない他の人と仲良さそうに笑っているのを見ると、焦りやもやもやした感情、嫉妬で苦しくなったり。
相手を自分の視界に入れるだけで、ひっそりと恋を堪能して満足したり。
告白が成功した当日の冷めやらぬ興奮とか。
あの頃の恋があまりにも澄んでいて思い出せば出すほどに、少女だった頃と正反対な現在がちゃんちゃら可笑しくて笑ってしまう。いや苦笑いと言ったところか。
人間は不思議だなぁ。というか、現代社会って不思議だなぁ、と。
あんなに純粋な好きを経験していても、今は将来のことを考えて好きになる前から好きになる対象を絞り込んでいる。そんな世の中。
そして、自分はそんな絞込み作業にすら挑む気力もなく過去を振り返っては恋愛について思い耽っている滑稽さよ。
逆に言えば無条件に人を好きになることができたあの頃(いや、今だって無条件に純粋な恋愛や恋はいくらでもできるけど…!)ほど、澄んだ恋をしやすい時期はなかっただろうなと今になって思う。
大人になればやっぱり色々と考えることは増えるわけで。あの頃は身長がどうとか、そんなこと考えもしなかった小学生の時の恋心なんて成人の恋と比べたらピュア度は天と地の差があるように思えてしまう。
婚活を否定したいわけでもないし、否定する気もないけど、恋愛とはまた別物である婚活を眺めた時にふとこんなことを思ったので書いてみた。
成熟するまでに純度100%の恋や恋愛を経験して、成熟後は伴侶を求めて審査が加わる。
動物や昆虫と同じだ。より条件の良い番を探して命を繋いでいく。
結局のところ、人間も地球に生きてる大半と同じで行き着くところは動物や昆虫と同じなんだろうか…という思考が浮いてきた。そこから、生物の誕生→宇宙理論と壮大な方向に私の思考は飛んでいってしまう。そろそろ終わりにしよう。
自分の思ったことをグダグダ書きなぐってみたが要約すると
恋せよ乙女!恋せよ少女!恋せよレディ!
ということ。
枯れ果てた人間が言えることではないけど、しっかり心の揺さぶりを経験して、心の土を耕せば強い根っこが生えて、雨にも風にも負けない立派な大樹が人生を支えてくれるんじゃないか、と思っている。(←何様。)
支離滅裂、深夜帯なのでお許しください。
皆、幸せになろう。
おわり。
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