『恋と花火』解説・考察
『恋と花火』は日本を代表する文学作品です。間違いありません。近い将来、村上春樹氏より先に『恋と花火』を作詞した利根川貴之氏がノーベル文学賞を受賞します。
マジで言ってます。マジで。歌詞を読んでください。
今回は『恋と花火』における様々な表現を解説・考察する記事になります。
イントロ
弾けてきらりきらり夜空に咲き誇る花のように
1番Aメロ
イントロの部分とは直接的な関係のない歌詞となっています。「無邪気に笑う声」はもちろん「祭り目指す子供たち」にかかっているのですが「子供たち“も”真っ直ぐに駆け上る」という表現が少し不自然です。“も”と言うからには子供たち以外にも真っ直ぐに駆け上るものが別に存在しているはずです。
この答えに近いものが直後に描かれています。「つられて高まる気持ち」です。この表現の関係性が見事です。何が見事か。さらに直後の「〜に少し恥ずかしく照れたりして」が大きく関わります。
最初に無邪気に笑い、駆け上る子供たちを描写しまるでそれにつられて自身(私)の気持ちも高まってきて、それを自覚した上で恥ずかしくなっているような描かれ方をしていますが、その通りではないと思います。先に「子供たちも」と書いているように、子供たちの気持ちが先行しているわけではありません。私も子供たち同様に祭りを楽しみにしていて、それ自体の照れを描写の順番で誤魔化しています。
また、このあたりの描写で「私」の年齢層がおおよそ判断できます。子供たちの無邪気さにつられて高まる気持ちを自覚して“少し”恥ずかしく照れる年齢です。20歳にもなるとそういった思いがけない気持ちにも肯定的になるものだと思いますが、まるっきり恥ずかしくてもうそこから離れたいというわけでもない。「少し」は大人になる直前だということを示唆しています。なので「私」はこの楽曲を歌唱している月のテンペストのキャラクターの大半に当てはまる16~18歳だと考えます。
ここまでは祭りに入る前の高揚感の描写ですが自分は「駆け上る子供」のもう一つの見方があると考えています。花火そのものです。恐らく私たちは階段をのぼっている最中に子供たちに追い越されています。既に眼前から走ってのぼっていくのを見ているより後ろから楽しげな声が聞こえながらどんどんそれらに追い越されていく様子が「つられて」に含まれていると思います。空はだんだんと暗くなってきていて、自分たちを真っ直ぐに追い越していく声。花火が夜空を真っ直ぐに、甲高い音を立てながら上がっていくのを暗示しているのではないかと思います。
1番Bメロ
ここで祭りからピントはズレて一緒に来ていた「君」にフォーカスされます。されますが、恐らくお互いに浴衣を着ているということがわかります。「いつもとちょっと違う 背筋がピンと跳ねる 浴衣姿 艶やかな様」だけではいつもと違う格好の君を見て背筋がピンと跳ねているのか、私自身がいつもと格好が違うから緊張しているのかがわかりません。「艶やかな様」の部分は明らかに君を見た感想だと思いますが。ただ、わからないというよりここはお互い浴衣である方が自然でしょう。
次に「曖昧なままじゃ終われないと」ここで彼女らの関係がまだ曖昧であることが発覚します。え? お互い浴衣で祭りに来てるのに? 男女が二人で浴衣で花火を見てたらそれはもう付き合ってるだろうという感じですが、二人はまだ花火を見ていないので付き合っていません。後にこの祭りが二人にとっての最初の祭りだということがわかる歌詞があります。
「決意の火 背中押して」ですが、これは実は花火のことではないと思っています。せっかく花火を見に来ているのだから、絵として背中側に花火が配置されることは考えづらいです。なのでここで「私」の背中を押す火は導火線の火です。ここで子供たちの場面に戻って考えると、楽しげな打ち上げ花火のメタファーである子供たちが私たちを追い越していったところでも「背中押して」の要素が含まれています。子供たちは花火でもあり、私たちに高揚感を与える、背中を押す火だとも言えます。
曖昧な関係を終わらせるためには、告白が必要になります。ここで高揚感に背を押してもらおうとしたのには理由があると思います。この楽曲には「私」の内面描写が非常に多く、考えすぎてしまう性格であることが伺えます。冷静を装おおうとする場面も多く、また、告白のために気持ちを整理しようとする描写も見られます。もう「私」に必要なのは冷静さではなく、ある一種の高揚感。藁にもすがる思いで何か私ではない全く別のものに頼りたいという気持ちが「私」の持つ性質とは違う「火」という表現で示されていると思います。
1番サビ
「初めてひらりひらり揺れる想い 口にしたら全てが消えそうで」この「全て」から「初めてひらりひらり揺れる想い」は今、この祭りで起こった想いではなく、この祭りの前に既に起こっていたものでこの祭りまでの過程全てが消えてしまうのではないかということが考えられます。もちろん口にするのは告白の言葉です。これがもし失敗したら全てが台無しになってしまう。ここまでの時間や関係性の破綻に怯えて「すぐ隣にいるのに踏み出せない」
また、花火は実際には真っ直ぐに上がっていくのではなく左右に少し揺れながら上がっていきます。歌詞中に度々使われる「揺れる」は揺れる恋心と揺れながら夜空に上がっていく花火を示唆しています。「この花火消える前に 君に伝えなくちゃ」今伝えないといつか消えてしまうかもしれないとわかっている恋心を「花火」に例えています。しかし、この曲は「恋は花火」ではありません。「恋と花火」なのです。この「と」が本当に大きなテーマとなっています。
「恋は花火」と言い切ってしまうと、この恋は燃えてすぐに消えてしまって、それは一瞬の大きな輝きかもしれないけれど「私」にとってそれは本望ではないのです。あくまでこの恋心が消えるならば、花火のような輝きを「君」の心に残せたらという想いがこもった「と」なのです。
「すぐ隣にいるのに踏み出せない」は「すぐ隣」なのに「踏み出す」という言葉をあえて選んでいることからここでは伝えるべき言葉を口にできないという意味合いですが、後の描写で物理的な距離も示唆していることがわかります。
「眩いくらいに圧倒的な一瞬の輝き」はもちろん花火のことです。それが「欲しい」とはどういうことか。次の歌詞では「この花火消える前に 君に伝えなくちゃ」と続きます。もちろん、花火が上がっているうちに、消えてしまう前に伝えたいという気持ちとも取れますが裏の意味としてはこの花火は「告白の言葉」です。自分の中にひらりひらり浮かび上がってきた言葉という花火が私の中で消えてしまう前に伝えなくてはならないという意思が感じられます。つまり「一瞬の輝きが欲しい」とは「君への告白の言葉が欲しい」という意味になります。表の意味では単に花火が消える前に伝えたいという意味になりますが、これは1番Aメロでも見られる照れ隠しの要素が含まれています。告白の言葉が花火の音やそれに伴う周囲の歓声で周りには聞こえずにどうか「君」にだけ伝わればいいというニュアンスが込められていると思います。
1番では祭りに向かう2人の様子や私の気持ちが主に「私」の視点から描かれています。しかしその私の気持ちがただ「君」だけでなく、「君」を中心とした周囲の環境や出来事に影響を受け、また「君」の存在を意識して照れ隠しをしたり密かに決心をしたりなど写実的に心の揺れ動く様が描かれており、古典文学を読んでいるような感覚になります。
正直、子供たちを火に見立てているという部分は少し考えすぎかもしれませんが、「私」と「君」だけを描くのではなく周りのものまで描いて祭りの情景を浮かび上がらせるほどの動きの描写が各所に見られるのは事実であり、そういう2人以外を描くことで二人の存在を浮かび上がらせるという点は意識して書かれているのではないでしょうか。
ここから2番に入ります。
2番Aメロ
ここでは1番Aメロで無邪気に笑う子供たちにつられた私と君の様子が描かれています。「誤解されないように嘘みたいに喋りすぎて空気も空回り」は1番Bメロで触れた「私」は考えすぎる性格であるという裏付けになっています。私が喋らないと祭りを楽しんでいないと思われるのではないか=君と居ても楽しくないと思われるのではないか、と考えすぎた末に喋りすぎていつもの私ではなくなってしまっている。
その後の「それでも一緒にはしゃいでる君にもう一度照れたりして」の「それでも」は「いつもと違う私を前にして、それでも一緒にはしゃいでくれている」と「喋りすぎて空回りして、それでも君にもう一度(子供たちにつられて高まる気持ちに照れたのが一度目)照れたりして」と2つの方向にかかっています。
2番Bメロ
個人的に、実はここまではサビも含めてまだ花火が上がっていないと思っています。サビで急に時系列が飛ぶことも考えましたが「空の色が変わる 夜の匂いがする」からまだ花火は上がらない時間帯から祭りを楽しんでいたことがわかります。大抵の花火大会は真っ暗になってからではなく、空が橙色から深い紫色になる頃に始まります。浴衣も着ていることから季節はもちろん夏であり、日本の夏の湿度が夜になるにつれて独特の匂いになっていく様子は想像しやすいです。
また「人混み溢れ近づいてく」から観衆がさらに増え、そろそろ花火が上がろうとしている時間に大勢が見えやすい場所を探して移動していることがわかります。今までは花火の前に祭りの雰囲気を楽しむ様子が描かれていましたが、ここからぐっと「花火」に視点が近づいていきます。さらに、今までさほど密着していたわけではなくそれなりの距離感で歩いていたことがわかります。そして1番でも語られていた「曖昧」がここでまたしても登場します。
「曖昧な距離じゃ進めないと 触れ合う手と手感じて」観衆が増え、はぐれないようにしているだけでどんどん二人の物理的な距離が縮まっていくなか、あまりにも人が増えすぎると二人の狭い隙間にも人が入り込んでそれでははぐれてしまう。このままでは前には進めないと思って互いに互いの方へ手を出す様子が浮かびます。また1番の「曖昧なままじゃ終われないと」から拾ってくると精神的な距離感も含めて「曖昧な距離じゃ進めないと」と表現されていると思います。しかし「触れ合う手と手」は圧倒的に物理、事実、誰がどう見ても、という物的証拠になります。2番のサビ前でグッとわかりやすい接触になるのがこの楽曲の描写のニクいところです。
2番サビ
握りました。やりました。感動しました。(ここまで長かった)
「初めて右手握って進む距離」ここまで全て「私」視点なのでここも「私」視点として考えると「私」は左手を「君」は右手を出していることがわかります。日本人の利き手は約9割が右利きです。相手の利き手のことを考える間もなく咄嗟に出た左手も、自分の利き手のことを考える間もなく咄嗟に出た右手もグッときます。ここでちゃんとどちらの手を握っているかを明確にしたことでここからの光景を頭に浮かべるときに立ち位置が確定し、筆者の思い描く光景がより読み手にそのまま伝わることになります。また「右手握って進む道」ではなく「距離」なのは「曖昧な距離じゃ」にかかっているのもあるとは思いますが、おそらく自分たちの意思だけでは身動きが取れないほど混み合っていることを表現しているのだと思います。ただ手を繋いで一定の方向に歩いているのならば「道」でいいと思いますが、わざわざ「距離」としているのは人を避けたり、少し後ろに下がったりなどというところまで含めたものが初めての二人の「距離」だということを示したかったからでしょう。
また、このそれぞれの目線の描写で二人の前後関係もはっきりとします。「目線が困って足元彷徨う」では「私」がどこを見ていいか分からずおどおどして繋がれた手すら直視できずに二人の足元を目線が彷徨っていることが描かれていますが、こんな人混みの中で足元を見ていられるのは「君」が「私」よりも前にいてくれているからです。その後の「見て見て空が空がこんなに綺麗だと君が笑った」で「君」が「私」よりも前にいることがより明白になります。「君」は前に立って手を引いて、前を見て人混みをかき分けて行かなければならない、少し前の方を見るために人混みを俯瞰して見るようにしたくて少し背伸びをしてスペースを見つけようとすると色がだんだんと変わっていく空が見える。それを恥ずかしそうに下を向いている「君」に見せたくなる。
ここでもまだ花火は上がっていません。花火が上がっているならば「空がこんなに綺麗だ」とは言わないと思います。ここで「君」の気持ちのようなものが少しだけ見られます。お互いに初めて手を繋ぐ場面。「私」は下を向いている。単純に空を見て欲しかったわけではなく、初めて手を繋いだ「私」の反応を見てみたかったのが本音だと思います。もちろん、下を向いている時点で照れていることはわかるのです。そして「君」も照れているのだと思います。「私」は足元を「君」は空を見上げてお互いにお互いから表情を隠そうとしているとも取れます。
Cメロ
ここは本当になんてことするねんという感じですが、この男(君)ここまでは良かったのに何故か去年の花火の話を始めます。去年は誰と来たのかなどはよくわかりませんが、ここで「私」がめちゃくちゃイラッときてるのがわかります。デート中に何を意図して喋っているのかよく分からない男はよく見かけますが、歌詞でも見られるなんて思ってなかったので(どこにでもいるんだ……)と思いましたね。ここは本当にめちゃくちゃリアルな“男と女”って感じがします。
「考えすぎ無口になる」主にBメロで取り上げられていた「私」の考えすぎる性格がここでも一貫しています。ここでは割とマイナスな入り方ですが「もっと綺麗になる もっと私になる」で逆にやる気が湧いているような描かれ方をされています。悔しいと黙るタイプなんですね。そしてこのタイミングで花火が上がっています。実はCメロは人混みを抜けて花火が見られるところまで移動しきっています。人混みで去年は~なんて話はできないですからね。おそらく落ち着いたところで「去年はさ~」と話し始めているうちに花火が上がり始めたのだと思います。「輝きに誓う」はそのまま、輝き=花火です。綺麗ではないから去年の話をされたというわけではないと思いますが「もっと私になる」は喋りすぎて空回る私や、ここで無口になってしまう私ではなく、私が私の気持ちをちゃんと伝えられるようにする、という意味だと思います。それを「輝き=花火」に誓っているのです。
大サビ
「初めてゆれてゆれて触れる恋」これはさきほど感じた「触れ合う手と手」から繋がる表現です。触れそうで触れない曖昧な関係からしっかりと触れてしまった初めての恋。その結果が「胸の高鳴り抑えきれなそう」になります。この「胸の高鳴り」は1番Aメロの「つられて高まる気持ち」に近い言葉がわざと使われていると思います。「胸の高鳴り」「高まる気持ち」これらは「胸の高まり」「高鳴る気持ち」でも一応意味は通ります。しかしここでは「胸の高鳴り」でなければならないのです。なぜならばその抑えきれないものは音である必要があるからです。ここでイントロ歌い出しの「弾けてきらりきらり夜空に咲き誇る花のように」がやってきます。ここで花火が次々と上がる音が、高鳴る胸の鼓動と重なっていくのです。
無邪気に楽しめるもので、恋で、告白の言葉で、胸の高鳴りで、曲中の状況によって意味を変えていく花火がその色や大きさは全く描かれていないのが本当に美しい。花火自体は描かず、恋の描写から花火を描いているという意味でもこの楽曲は「恋“と”花火」である必要があるのです。
ラスサビ
ほとんどが1番サビと同じです。が、大サビから歌詞が繋がっていると考えるとまた深みが出てきます。「弾けてきらりきらり夜空に咲き誇る花のように初めてひらりひらり揺れる想い」と取れば恋心が今にも消えてしまいそうなひらりひらりと夜空に溶け込んでいくような淡い気持ちであることがよりはっきりとします。「君」の少し嫌なところが見えてしまった、このまま今日何もなければもう冷めてしまうかもしれない、という一種の悟りも「私」の中にはあるような気がします。
でも「私」から踏み出すための、花火のような一瞬の輝きはまだないのです。でも花火はもう終わってしまう。かなりの数の花火が上がって、もういつ終わるか分からない。「この花火消える前に君に伝えなくちゃ」なのです。
ここでようやく歌詞中にタイトルが出てきます。告白できたのか、告白の言葉は、結果は、わかりません。ただなんとなく想像できるのは、ここで「恋と花火」が2回繰り返された意味です。おそらく一度目は告白で、二度目は返事です。
本当はパート分けで担当しているキャラクターの設定や性格などについても深掘りしていきたかったのですが、文章量が倍になるのと単純に楽曲の、歌詞の良さを知っていただきたかったのでここで留めておきます。まあアイプラ見てる人しか読まんやろこんなの。
この文章を読んだ上でもう一度歌詞を見返しながら、『恋と花火』を聴き直して、何度も聴いていただけると幸いです。