いつまでもお金にとらわれている。
「お金にとらわれない生活がしたい」
そう思えば思うほど、お金にとらわれてがんじがらめになっている気がする。
会社員の時には(そこまで)気にせずに使っていたけれど、今はためらうときがある。それがなんか、退化しているみたいで苦しくてしんどい。
でも、会社員時代のお金の使い方は、思考停止でもあったな、と思う。
1週間がんばった自分を労うために金曜の夜はコンビニで豪遊、休みの日くらい何もしたくないから土曜のお昼はウーバーイーツ。スタバの新作が出たら仕事おわりに飲みに行く。(いや食べ物ばっかりやな)
もちろん悪い使い方ではないし、それはそれで楽しかったけれど。
今はまいにちが休みのような休みじゃないような、まいにちがんばっているようながんばっていないような、そんな日々をぼんやりと生きているので、特に「ご褒美」的なものを求めなくなった。
がんばるタイミングとがんばらないタイミングを自分で決められる生活である、という表現が伝わりやすいかな。
どうしてもわたしは人間なので、今を正当化したくなるんやけど、そんな自分も全部自分なのだ。将来に不安になる自分も、今を楽しみたい自分も、お金にとらわれている自分も、誰かに愛されたい自分も、おふとんで一生過ごしたい自分も、誰かの役に立ちたい自分も、ひとりになりたい自分も、全部、自分。それ以上でも、それ以下でもきっとない。
どんな自分でもいいんだよ、と、思えたらいい。思いたい。
まだまだわたしは今まで培ってきた固定概念にとらわれまくっている。4月からこれまでとは180度ちがう生活をして色んな凝り固まった考えがぶっ壊されてきたけど、それでもまだまだとらわれて苦しんでいる。
あぁ、苦しいな。
苦しい思いはできる限りしたくないよ、人間だもの。
できるだけ楽な気持ちで生きていきたい。あんまり難しいことは考えたくない。すきなひとたちとすきなことして生きていきたい。
ここまで書いて思ったのは、わたしは自分が苦しんでいるということを認めたくなかったんだなということ。常に楽しくいたいし、そう思ってもらいたいもんね。
小さな不安要素が積み重なって、今の苦しさがある気がする。でも、多分過ぎ去ってしまえば大したことじゃなかったな、と思う気もする。わたしは根がわりと心配性なのである。
自分のどろっとした部分を言語化できるくらいの元気はあるのだな。
別に言語化することでこの苦しみが解消されるわけでもないのだけれど、自分が今立っている場所を認識するくらいはできる。地に足をつけることができる。それだけでも、やっぱり違うなとおもう。
そういえばこれを書いた日はクリスマスだった。
クリスマスの夜にいったい何を書いているんだわたしゃ。
さて、お風呂入ろう。
読んでくれてありがとう。