岩盤浴へ行こうと思う。
今日は温泉に行こうと思う。
実は昨日も温泉に行ったのですが、
ええと、温泉に通い詰めていたおかげで溜まった2年分のポイントがあるので、
それを使うために、今日は岩盤浴へーーー。
今日は大学がお休みなんです。
お休みは気持ち的には気楽だけれど、その分、身体は少し重くなります。朝起きて、わ、朝だ…、と思って、今日はだらだらと、布団脇に放置してあった、「アルジャーノンに花束を」というダニエル・キイスさん作の本を読みました。
とうとう、完読することができて、
このお話の概要は、
32歳で、幼児なみの知能しか持つことができないチャーリーが、大学で行われている知的障害者を賢くする研究の被験者となり、頭を良くしていくーー
そして、すべての学問に精通できるくらい、研究者に対してさえ、みんな薄っぺらなことしか知らないと思ってしまうくらいまでに、知能が発達していったチャーリーはいかに…
そんなお話で、
心に残っている一文をあげるとするならば、
うろ覚えだけれど…
ときに、知識が欲しいという欲求(賢くなりたいという欲求)は、愛情まで排除してしまうことがある。
情緒が伴わず、知だけが発達していくと、神経症になってしまったりする。
…
以下、ネタバレに入っていきます。
チャーリーは、研究のための脳の手術を受ける前には、
頭がよくなりさえすれば、みんな自分をばかにしなくなって、みんなと仲良くなれると思っていた。
けれど、実験によって、世界中のほぼだれよりも、頭がよくなり、
その結果、人と議論をしても、チャーリーの頭脳についていける人がいなくなって、さらに、人はチャーリーと話すことによって、自分に劣等感を感じるようになってしまう。
実験前のチャーリーは、知的障害を持ってしても、みんなと仲良くなりたいがために、勉強熱心だった。言葉が分からないなりに本をたくさん読んでいた。
けれど、実際に、人一倍以上頭が良くなってみると、待っているのは孤独だった。
知性について、とても考えさせられる作品でした。
でも、やっぱり、人はどうしても、賢くなりたいという欲求は止めることができないのだと思う。
チャーリーも、かしこくなることが孤独に向かうことを分かっていながら、それでも読書をすることを辞めなかった。辞められなかった。
だから人は、そういう、知性、脳の複雑さが、ときに芸術に向かい、
え、これ本当に人が作ったの?と思うような繊細な、高技術な作品が出来上がったりするのだと思う。(緻密さだけが、芸術ではないと思うけれど…。)
にしても、実験したかそうでないかに関わらず、
大人になって、人それぞれ頭のなかに蓄積されてきたものが、十人十色になっていけばいくほど、
「語り合う」ことは、どうしても難しくなっていくだろうなぁ、というのは、とても強く感じます。大人が孤独について、詩を書いたり、歌ったりするゆえんは、ここにあるのかなぁと思いました。
最後に、この本は、はじめはこんな感じで始まります。
知能の発達度合いが日記で読み取れます。
表面的なことなのですが、たしかに、手術前の日記は読みづらくはありますが、
でも、わたしは、チャーリーの手術前日記がとても好きで、
「ぼくは」が、「ぼくわ」になっていたり、あるべきところに「。」がなかったりするけれど、
情緒的なところは、ひしひしと伝わってきて、
なんというか、書くことって、文法はそんなに関係なくて、
些細なことを書いてみればいいんだなぁと、そういう部分でも癒されました。
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