姪っ子の授業参観 in イタリア
姪っ子の授業参観をした。
叔父としてこれ以上幸せなことはない。
ただちょっぴり普通じゃないのはここはイタリアで、イタリアには特別支援学校が無いということだ。
この国では、1971年の法律改正から順に特別支援学校と支援学級が廃止されていった。もともとは「全ての障害児が地域の学校で教育を受ける権利を保障する」という趣旨であった。いわゆる「フル・インクルーシブ教育」がこの国の教育の根幹にある。
それから50年余り。
それ自体に強烈な価値観を孕み「フル・インクルーシブ教育」はイタリアに根付いている。
特別支援学校が無い国イタリア。
自分の常識とはまったく異なる世界観だった。
1.きっかけは国連の勧告
日本で話題になったきっかけは2022年の国連の勧告。
「日本の特別支援教育は差別的で、即刻中止すべき。」というものだった。特別支援学校の教師として働く身の私は悲しい気持ちになったのを覚えている。
当時の私は、ナミビアでとある国連の機関の方と一緒に仕事をしていた。それはそれは色々あったせいで、私は国連に対して「現場のことを何も知らない人たち」という先入観を持っていた。なのでこの勧告自体も「何も知らない人たちが好き勝手言ってるなぁ」と思ったものだ。
日本には日本の事情があるし、日本のやり方があるというのに…なんかモヤモヤ。だいたい国連の言うこと聞いてうまく行ったことなんて一度もn(やめとけ)
ごめんなさい。
しかし、こうも悪者のように言われると実際はどうなんだろうという好奇心が芽生えてくる。するとその1年半後、日本に帰国した私はとある教員向けの研修で再びこの話題を目にした。
そしてそこでは、イタリアの「フル・インクルーシブ教育」が好例として紹介されていたのだ。なんとびっくりイタリアには特別支援学校がひとつも無いらしい。
知らない世界だ。
どういう仕組みなの?
上手くいってるの?
重度のお子さんはどう過ごすの?
医ケアが必要なお子さんは?
全ての障害種に対応できてるの?
全ての教師が特別支援の専門性を学ぶの?
もし仮にそれで上手くいっているのなら学びたい!
…特別支援学校がないと言うだけで次から次へと興味が湧いてくる。
イタリアかぁ。
え?イタリア?
そういえばいまイタリアに姉が住んでいる。
もうこれは導かれているとしか思えなかった。
そういう運命なんだな。
そう思い、その場ですぐに連絡をした。
するとすぐ返事が来た。
小学1年生の姪っ子がちょうどイタリアの地元校に通っている。その担任の先生から見学の許可を得た私はイタリアにやって来た。
国連が否定した日本の特別支援学校の教師が、フル・インクルーシブ教育歴50年のイタリアでその実態を見に来てみた。
心はエキサイトしている。
2.学級編成のちがい
まずひとつ、学級編成に大きな差があった。
【日本】
上限40人で、小学校1年生は35人。
※令和7年度に向けて全学年を段階的に35人へ引き下げ
【イタリア】
上限25人で、障害のある生徒がいるクラスは上限20人になりアシスタントの先生が付く。
この違いに「フル・インクルーシブ教育」を成立させられる大きな要因があると感じた。イタリアはそもそもの学級編成がめちゃくちゃ手厚い。ナミビアにいた時に、1クラス50人もいたら指導できないよって思っていたけど、日本の40人でもまだまだ多く感じるほどだ。
イタリアの先生に「日本は基本担任1人で子ども35~40人だよ」と伝えたら「それは無理です(インポッシボー)」と言われた。
人数が少なければその分、必然的に丁寧な教育ができるようになる。それだけの人員を配置できる予算配分なのか、法整備なのか。特別支援教育を抜きにしてもこれは羨ましい限りである。
だがしかし、人数を手厚くしただけで「フル・インクルーシブ教育」が成り立つわけじゃない。他の要素を探ろう。
3.教師の専門性
障害がある生徒1人につき、生徒は多くても20人まで。
そこに担任以外にもう1人「スペシャルティーチャー」という先生が配属される。(姪っ子は単に「アシスタントの先生」と呼んでいた。)
「スペシャルティーチャー」は、普通の教員免許に加えて、特別支援教育を専門的に学んで資格をとるらしい。これは日本と同じだ。(おーくぼも中学と高校の社会科の普通免許に加えて、特別支援教育の免許を持っている。)
姪の担任や、教科指導の先生が持っているのは普通教育の免許のみで、特別支援教育の専門性は特に無いとのことである。ってことは、イタリアでの障害児の教育はこの「スペシャルティーチャー」がほとんど全てを担っていることになる。
すごく尊い仕事だ。
まさにスーパーマン。
障害がある生徒が授業に参加できるように、さまざまな工夫を凝らして授業をサポートしている様子を、実際に見学させていただいた。
ただみなさんご存知の通り、ひと口に「特別支援教育について学んだ」と言ってもその幅はとんでもなく広い。学習障害や神経発達症以外にも、肢体不自由や聾、盲などなど障害種は多岐にわたる。
おーくぼだって全てを網羅できているわけではない。
知らないことの方がもちろん多い。だからこそ日本の特別支援学校では専門性に特化した学校の種類が存在し、チームで、みんなで教育にあたるのだ。経験豊富な先生に助けていただいたことが何度あったことだろうか。
イタリアでは、このスペシャルティーチャーが1人でそれをやらなくてはいけない。どのくらい幅広く知識や経験、専門性があるのだろう。1人で全てカバーするにはちと荷が重そうだなぁと感じた。もし必要ならイタリアからもかめスクで学んでもらいたいものだ。
一応、その生徒の特性に合わせた専門性を学んだ「スペシャルティーチャー」が配属されることになっているらしい。(例えば、肢体不自由のお子さんには肢体不自由専門のスペシャルティーチャーが付くみたいな感じ)
仕組みとしては素晴らしい。
だが、そんなピッタリの人材が毎回見つかるんだろうか?もしピッタリの人が見つかったとしても、その人が義務教育の8年間ずっと付きっきりになるのかな?それはそれで教育的にどうなんだろ。
疑問は尽きない。いずれにしても、人材難に喘ぐ日本の教育現場からはなかなか想像しにくい。
4.医療的ケア in イタリア
お次は医療的ケアのお子さんについて質問した。
日本の特別支援学校では、看護師さんが常駐していたり保護者さんが付き添ってくださったりしながら、医療的ケアが必要なお子さんも通学している。他にも訪問教育という選択肢もあり、ご家庭によって学習状況は様々だ。
イタリアはどうだろう。
最初にお話を伺った A 先生は、「学校にナースは配置できない。保護者が付き添えない限り通学は難しいので近くの福祉施設に通うことになる。」と仰っていた。
ちょっと待って。
フル・インクルーシブ教育はどこへ…。
と思っていたら、B 先生は医療的ケア児を学校で受け入れた経験を語ってくださった。いわゆる「学校看護師」はおらず、医療的ケア児がクラスにいるときは病院の看護師を手配して学校に来てもらうとのこと。
ただ病院での勤務が基本なので、ケアが可能な時間は1日に数時間だけ。それも毎日ではなかったらしい。それ以外の日は在宅で過ごしたり、教員が家に出向いて行う訪問教育のような形をとっていたようだ。
2人の先生の認識が異なっていることから、医療的ケア児をどのように受け入れるかが明確に決まっているということではないのだと感じた。お子さん一人一人が教育にアクセスできるように、その都度その都度で最善を尽くして柔軟に対応にしますよ〜という印象だ。
例えば「気管切開のお子さんは今までに経験がない。だけどもし入学を希望されたらそのときは必要な環境を揃えて受け入れるよ」と話してくれた。
正直日本人としては「あらかじめ細かく決まっていたほうが安心」かもしれない。しかし、イタリアのように「決まってはいないけど柔軟に受け入れる」のも、拒否されない安心感というのだろうか、また違った種類の安心があると感じた。
5.重度の障害があるお子さんの過ごし方
日本の特別支援学校には教育課程というものがある。
教科書の学習をする教育課程、知的障害があるお子さんに対応した内容を学習する教育課程、自立活動を主として学習する教育課程などなど、お子さんの実態に応じて教育課程を選択することができる。
イタリアにも、スペシャルカリキュラムというものがあった。そうだよね。いくらなんでも全員が「教科書の学習しか選択肢がない」となると実態に合っていない学習を強要することになっちゃうからね。これにはホッとした。
お子さんの実態に応じて、別室へ移動してマンツーマン指導をしたり、内容を変えて指導することができる。いわゆる取り出し授業のような形だ。他にも、重度の障害があるお子さんの人数が増えれば、それ専用の教室を用意してみんなで一緒に授業することもあるらしい。
え?
それってもはや特別支援学級やん。
あるやん。特別支援学級。
その「日本でいう特別支援学級」の教室は生徒の実態に応じてレイアウトも全部作り変えるらしい。自分のクラスに戻ったり、その部屋に来て学んだりと非常に柔軟に対応している印象を受けた。
居場所が複数あるのって子どもからしたら過ごしやすいよね。日本みたいに「あなたは特別支援学級に在籍です」とバチっと決めちゃうのではなく「どっちにいても良いよ〜」みたいなファジーな扱いなのかな、と感じた。
6.イタリアと日本の特別支援教育の違い
好奇心のままにいろんな話を聞いたのだが最後に、イタリアの先生に「フル・インクルーシブ教育のメリットとデメリットは?」と聞いてみた。
デメリットは「思い付かない」とのこと。
メリットは「障害があるお子さんと幼稚園の頃から一緒に過ごしているので、存在自体が当たり前になっていて疑問を抱かない。受け入れ方も、関わり方もとても自然。」とのことである。
ここまでの話を聞いてに皆さんはどう感じただろうか?ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。
いかがだろう?個人的な見解を述べると日本とイタリアでは思考の出発点が全然違うな、と感じた。
イタリアのフル・インクルーシブ教育の根本には、「いかにして普通教育に参加するか」という考えがベースにあるように感じた。そのための努力は惜しまないし、いわゆる健常のお子さんにとっては、障害があるお子さんと一緒に過ごすことは物凄く価値のある時間になるだろう。
事実、イタリアの街を歩くと優しさに触れる場面が多かった。姪っ子2はベビーカーユーザーなのだが、街ゆく人は微笑んですぐに道を開けてくれるし席も譲ってくれる。車椅子の方を見かけても偏見なくササッと手助けしている場面を何度か見た。これももしかしたら、そういう教育の賜物なのかなと思ったりした。
しかし、基本的には健常児に向けた普通教育がベースにあるので、そこに参加するのが難しい場合は障害があるお子さんにとっては選択肢が狭まってしまうように見えた。極端に言えば、優しさはたくさん受け取れるけど選択肢が少ない。
一方で、日本の特別支援教育を支える考え方は、徹底した「個別のニーズに応じた教育」だと思う。はっきりと申し上げて、日本の特別支援教育は世界一きめ細かい。個別のニーズにひとつひとつ丁寧に対応していった結果が、多様性に富んだ学校種(知的,肢体不自由,聾,盲など)を生み、特別支援学校の今の姿を作り上げていったのだ。
一人一人が活躍できる学校生活。
一人一人が挑戦できる学校生活。
誰一人として教育から取りこぼさないぞ、という気概が根付いてるように思う。
まぁあまりに細かくマニアックに突き詰めすぎると大衆からは理解されにくくなるのは、なんの分野でもそうだろう。日本の特別支援教育を批判した国連の皆様からは、そのきめの細かさが見えずにお門違いな批判をしてきたんじゃないかな。(そろそろ怒られそう)
あまりのきめの細かさゆえに、障害とは無関係に生きて来た人にとっては「難しくて踏み込みにくい分野」となってしまっている部分は往々にしてある。そこが日本社会全体に、障害への無理解を蔓延らせている原因なのかもしれない。
話がえらく脱線してしまった。
7. 時代は変わる。教育はどうだ。
とはいえ世界の潮流は間違いなくインクルーシブ教育に向かっている。これはどちらかが良くて、どちらかが悪いという話では全くない。日本の特別支援教育のきめ細やかさを失わず、イタリアの様に多様性に寛大な心を育んでいくには、どうすれば良いのか。これからの時代の教育者として常に考えないといけないと思わされた。
2年前、国連によって日本とイタリアの特別支援教育の事情が真逆にあることが示されたあの日。(ナミビアの自宅でパスタ茹でながら読んだ記事だったなぁ)あの頃の「好き勝手言ってんじゃねぇ!」という思いはどこへやら、今となってはこの真逆に見える2つの国の教育観がうまく交われば、新しい教育の形を見出せそうな気さえする。
(そう思うとあの国連の勧告にも意味があったんかなぁ。)
今の教育者たちの熱意と選択によって、子ども達と社会の未来が変わっていくのだ。改めて、教育とは責任の大きな仕事である。
時代は変わっていく。
教育はどうだ。
Ciao!!