この空の下
2013年4月。
初めて陸前高田市を訪れた。
東日本大震災から2年が経った頃だった。
この頃になると震災関連のニュースがTVで取り上げられることもほとんどなくなり、他県に住む人々からは被災地の現状は見えにくくなっていた。
かくいう私も当時は愛知県で暮らしており「2年経ってニュースでやらなくなったという事はそれなりに復興も進んでいるのだろう。」という思い込みを、無意識のうちに抱いていた。
しかし、現地に着いた私たちはすぐに言葉を失うことになった。こんなにも心が痛む光景を見たのは、誰にとっても初めてだったのだ。
1.何も知らない大学生だった
大学4年生の私は、俗に言う「よさこいサークル」に所属していた。踊りを通してお客さまに「夢」を与えることがチームのコンセプトだった。
チームの代表を務めていた私は「日本一夢を与えるチームと名乗る以上は、被災地の方々にも夢や勇気を与えるべきではないか」という想いを抱くようになった。
今にして思えば実に独善的な想いだ。
しかし当時の私は自らのエゴに気付く事もなく、恥ずかしいほど真っ直ぐに陸前高田市への遠征を決めた。
そこそこの強豪チーム()だった事もあり、他の学生チームにも顔が効いた。合計3チーム・総勢約200人での遠征計画が立ち上がった。
私たちが掲げたテーマは『心の復興』だった。
現地の人との楽しい時間を作る。
人と人との繋がりを作る。
そうする事で心が前を向いてくれたらいいな。
笑顔になってくれたらいいな。
そんなイメージだった。
計画は進み、遠征当日がやってくる。私たちは自らがいかに浅はかだったかを思い知る事になる。私たちは本当に「何も知らなかった」んだ。
2.ガレキに埋まる子どもの靴を見た
チャーターした大型バスに揺られ、真夜中の東名高速をひた走る。
途中休憩を挟みながら、まるまる一晩掛けて人生初めての東北の地に足を踏み入れる。深夜だというのにバスの中には、仮設住宅にお住まいの皆さんに見ていただく演舞の振り付けを確認する踊り子たちの姿があった。
皆一様に、ある種の使命感(のちに砕け散る)を抱え、若干の高揚を抑えきれないでいるようだった。
名古屋を出てから13時間ほど経っただろうか。
空が白み始め、間もなく陸前高田市に到着するところまでやって来た。
現地で私たちを迎えてくださるのは、現地の小学校で校長先生をしていた方だ。ご本人も被災された経験がありながら、外からやってきた得体の知れない私たちを真摯に受け入れてくださった。
無事到着。
彼と合流し、長旅を労う言葉をいただいた。受け入れてくださったことに感謝を申し上げると、彼は「仮設住宅に行く前に被害があった街を見に行こうか。」とだけ言って私たちを連れ出した。
見渡す限り何もない景色。
破壊された防潮堤や駅。
ひび割れた道路。
ガレキの山、また山。
そして、その中に埋もれた子ども用の靴。
全てが想像以上だった。
ここに2年前まで街があり、大勢の人が住んでいたなんて信じられなかった。凄惨な光景に衝撃を受け、私たちは全員が言葉を失ってしまった。こんなにも心が痛む光景を見たのは、誰にとっても初めてだったのだ。
なぜニュースでやらなくなった?
復興は進んでいないじゃないか。震災から2年間、何も知らず何もできずにいた自分が情けなく、悔しいと思った。
ここまでの経験をした方々を相手に「夢を与えるために踊る」だと?
浅ましくて喉が渇いた。エゴむき出しの自分の想いを自覚してしまって眩暈がした。「自分にできることなんて何もないんじゃないか」と怖くなったのを覚えている。
すると私たちの心情を察したかのように、校長先生が「さ!この後は仮設住宅でみんなが待ってるよ!ここからは笑顔でね!」と声を掛けてくださった。
そうだった。とてつもなく大変な経験をされながらも、私たちの踊りを待っていてくださる方がいる。全くの無力かもしれないが、石に齧り付いてでも全力を尽くすんだ。校長先生の言葉に背中を押される形で、仮設住宅へ向かった。
3.勇気をもらったのは僕だった
緊張感が高まる。被災地の現状を見て一気に不安が募った。
しかしそんな不安をよそに、仮設住宅に着いたときにまた一つ想像以上のことが起きた。
「おぉ〜!待っとったよ〜!!」
「ようこそ陸前高田へ〜!!」
力強い歓迎の言葉が暖かく突き刺さる。
立ち上がって拍手してくださる方もいらっしゃった。
さっきまで見ていた被災地の凄惨な光景と、仮設住宅の皆さんの元気な姿が結びつかず、ひととき混乱した。
人はこんなにも強くいられるのか。
人はこんなにも前を向くことができるのか。
自分が生まれ育った愛すべき土地で、あまりにも悲しい出来事があったというのに、外からやってきた見ず知らずの得体の知れない若者をこんなにも笑顔で歓迎することなんて、自分にはできるだろうか?
馬鹿で無知な苦労知らずないち大学生だった自分には、目の前の光景が信じられず、皆さんの心の強さに涙が溢れた。
演舞の時間が来た。
3チームそれぞれが全力でパフォーマンスし、最後には現地の皆さんと私たち全員で手を繋いで踊った。
美しい時間だった。
暖かく迎えていただき、現地の自慢をいっぱいしてくださった皆さん。
にこにこと話すその笑顔に、気がつけば私たちの方が勇気をもらっていた。元気も笑顔も夢も希望も、私たちの方が受け取ってしまっていたことに気付く。
『俺たちの踊りで心の復興を!』という所信表明が、今となってはエゴ満載で滑稽な恥ずかしいものに思える。
最後に仮設住宅の自治会長さんからお話を聞かせていただいた。
この日、私たちが踊ったこの体育館は震災当初一時的に遺体を安置する場所として使われていたらしい。つい数日前まで、子ども達が卒業式の練習をしていたこの体育館が、だ。さらに自治会長さんは、「今日見に来てくれたお客さんの全員が、友達か親か兄弟の誰かを亡くした経験がある」と続けた。この現実を愛知に帰ってから周りの人に伝えてほしいと…。
すぐには受け止めきれないさまざまな感情が胸を埋め尽くす。
ただただ聞き入り、拍手でお返しすることしかできなかった。
帰り際に住人の方が「来年もまた来いよ!地元の食材で作るうまいラーメン用意して待ってるからな!」と全員に向けて言ってくださった。自分たちがエゴにまみれていた現実を突きつけられていたからこそ、また来てくれと言ってくださったことが嬉しくて嬉しくて、涙が止まらなかった。
今度は嬉しさいっぱいの笑顔まじりの涙だ。
さぁもう帰る時間だよ。
別れを告げた。
4.ただまた会いたいだけ。それでいい。
帰りの深夜高速のバスの中で考えた。
もらった言葉の一つ一つが頭の中で反芻される。
この繋がりを一回きりにしてはいけないな、と思った。
また会いに行こう。
1年に一度、また会える日を作ろう。
その日のために頑張るんだ。
それが生きる糧になる。
翌年からは「さくらまつりin陸前高田」と称してお祭りを主催し、年に1度開催した。それを6-7年繰り返して陸前高田市に通い続けた。現地に父親のような存在もできた。第2の故郷と呼んでいいぞ!と言って可愛がってくれる人たちに恵まれた。
毎年おかえりと言ってくれる人たちができたことが嬉しかった。
会いたい人がいるから、会いに行く。それだけのことがとても幸せだと感じるようになっていた。そのことがひいては、陸前高田の皆さんの楽しみになっていてくれたら嬉しいなと思っていた。
5.この空の下
2020年2月。
新型コロナウイルスが猛威をふるい出す。
ありとあらゆる活動が中止・延期を余儀なくされた。
「さくらまつりin陸前高田」も例外ではなかった。
実行委員長を譲り託した後輩から「なんとか開催できないか考えたのですが、悔しいですが延期になりました。」と連絡を受けた。さらにコロナ禍に、現地で父親のように慕っていた方が重い病に侵されたと一報が入る。
「会いにいきます!」と食い下がったが、岩手県は不断の努力で感染者ゼロを維持し続けていた県だ。コロナが落ち着いてからね、ということになってしまった。
その後、私は私でナミビアへ旅立ち2年過ごしてきた。当然だがしばらく陸前高田へは行けていない。震災からは13年が経った。その後の報せはまだ何も聞いていない。
いまもこの時の思い出は、自分の価値観に根付いている。
何としてでも自分と自分の大切な人の命を守れるようになりたい。
他人に「何かしてあげること」なんて土台できやしない。
御託はいらない。会いたい人がいるから会いに行く。それだけだ。
たとえ、いますぐに会えないとしても僕たちはどこにいたってつながっている。そんな思いを込めて作った曲がある。
タイトルは「この空の下」
いつかまたこの曲を陸前高田で、
みんなで踊れる日が来るかな。
第2の故郷への里帰りそろそろしなきゃな。
P.S.現地の防災士の方が毎年3月11日につぶやくXのポストを引用して終わります。