ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 7 【、を舐める】
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帰宅した私は脱皮するかのごとくずるりと服を脱ぎ、下着姿になった。
冷蔵庫からハイボール缶を取り出し、プルタブを引く。
反射的に腰に手を当てながらごくごくと飲み、喉を潤わせていった。
プハーッと大きく息を吐きだしてから、缶に残ったハイボールをグラスへ注いでいく。
きらきらしゅわしゅわ。
煌めく琥珀色。
眩しい世界。
真っ黒な氷の世界とは、真逆の世界。
どうやら氷山は、私がSだと、女王様だと、誤解をしている。
そして私の――詩織様の下僕になりたい、と本気で思っている。
つまり氷山が求めているのは一般的な彼氏彼女の関係ではなく、女王様と下僕の関係。
好きな人を、いや、好きな人に限らず、人を虐げたいと思ったことなんて人生で一度もない。
せいぜい付き合っていた人ととひどい別れ方をしたときに「地獄へ落ちろ」と心の中で呪ったくらいで、その呪いだって一週間もすれば忘れていた。
私がこれまでつき合ってきた人は、私が知る限りでは全員ノーマルだった。
自称Sという男はいたけれど、ただの自分勝手な男だったと思う。
体調が悪いと言っても強引にホテルに連れていかれ、テカテカした顔で鼻の穴を広げて「悦んでるだろ?」と誇らしげに言われ、清算のときには「今月ピンチだから払ってくれない? 悦ばせてやったし、いいだろ?」となぜかえらそうに言われた。
Sの定義はわからないけれど、あれはきっとSではない。
女友達に自称Mは何人かいた。
漫画やドラマの俺様キャラが好きだとか、言葉攻めをされたいだとか、そういうレベルのM。ソフトでマイルドなM。
氷山が望んでいるのは、きっとそういうレベルではない。
あの濡れた瞳が求めているのは、そんなかわいいレベルではない。
もっと先の行為。
私は氷山を乱したいと思ったけれど、それは虐げたいとは違う。
氷山を蹴ったり、叩いたり、罵ったりだなんて、したくはない。
それに、そんなのは氷山には似合わない。
氷山には蹴ったり、叩いたり、罵ったりする側の方がきっと似合う。
だけど、私が正直にSではないと氷山に告げたら、氷山と私の間にはなにが残るだろう。
きっとパートナー関係は解消される。
氷の世界へはもう招いてもらえない。
氷山は他の女王様を探すだろう。
氷山に相応しい、冷ややかな女王様を。
「あ……」
空きっ腹で飲んだハイボールが、突如私を酔わせた。
視界がぐにゃぐにゃと歪み、身体が床に崩れ落ちていく。
指先の傷はどくどくどくどく脈打った。
まるで、私を後押しするように。
もしかしたら――頑張れば、平手打ちくらいは出来るかもしれない。
氷山の顔に傷なんてつけたくはないけれど、氷山が望むなら、氷山が悦ぶのなら、ぺちんと叩くくらいは出来るかもしれない。
言葉で攻めることも、少しは出来るかもしれない。
氷山は「豚野郎」と言っていた。
私には笑いしか込み上げてこないけれど、氷山は「豚野郎」と呼ばれることで興奮するのだろうか。
まったく想像がつかない。
ぶ、
た、
や、
ろ、
う。
指折り、数える。
たったの五文字。
「ぶ」と「た」と「や」と「ろ」と「う」を繋げて口にすることで、私が覚悟を決めることで、氷山は私のものになる。
氷山を、私の氷山にしたい。
踏み込もうとしているのは未知の世界で、私は若葉マークどころか基礎知識すら持っていない。
それでも、どうしてだろう。
諦めようとは思えない。
諦めるなんて無理だ。
氷山の濡れた瞳も、生温かい舌も、しなやかな指先も――私は、知ってしまった。