ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 6 【、を舐める】
私は泣く泣く氷山を止める。
「ひ、氷山、やめて……」
氷山はすぐさま指先から舌をほどき、身体を離した。
指先はてらてらとひかり、少しだけ血が滲んでいた。
「申し訳ありませんでした、詩織様。僕ごときが詩織様の血を舐めるだなんて……。勘違いも甚だしかったです」
氷山はまだ笑えない冗談を続ける。
「ねえ、その冗談、もうやめない?」
「僕に手当をさせてくれませんか、詩織様」
嚙み合わない会話。
氷山はまだ、このよくわからない冗談を続けたいのだろうか。
氷山と私のギャグセンスは、まったく合いそうにない。
もちろん合わなくても構わないけれど、どう反応したらいいのかがわからない。
困惑する私をよそに、氷山は救急箱を持ってきた。
消毒液も風邪薬も胃薬も、すべて新品のような状態で、ぴったりと収められている。
「詩織様の指に……。触れてもいいでしょうか」
跪き、濡れた瞳でねだるように訊ねる氷山にすべて奪われる。
私はちいさく頷いた。
「沁みるかもしれません」
まるでシャンパングラスに触れるように指に触れられ、消毒液を染み込ませたコットンで傷口を拭われた。
ピリリとした痛みに思わず眉が寄るものの、私の意識はやはり氷山に向く。
カサカサしているわけでも、ぺったりしているわけでもない氷山の手。
ちょうどいい感触。
薄い皮膚の下を走る静脈の一つ一つまでもが愛おしい。
「いかがですか、詩織様」
手当てはあっという間に終わってしまった。
もっと大きい傷だったなら、この時間はもっと続いたのだろうか。
それならもっと大きい傷がよかった。
「ありがとう。グラス、割っちゃってごめんね。それにカーペットまで……。雑巾とか、掃除するもの貸してもらえる? もちろん、弁償もするから」
「詩織様に掃除なんてさせられません。それに弁償だなんて。むしろ、僕が詩織様に支払いたいくらいです」
「どうして氷山が支払うの?」
「詩織様の指に、触れることが出来たので」
「その冗談……。いつやめるの?」
「先ほどの呼び方についてですが、慧も氷山も、やはりよくないと思います。下僕である僕が言い出すのもおこがましいですけれど」
氷山の言っていることが、なに一つ理解出来ない。
いったい氷山はなにを言いたいのだろう。
「えっと、どうしてよくないの?」
「詩織様が下僕を名前で呼ぶだなんて……」
「だから、その詩織様って、もうやめようよ」
「豚野郎、屑、ゴミ……。詩織様から頂ける名前なら、僕にとってはすべてが有難く、すべてが悦びです。名付ける程の価値がないとおっしゃるなら、もちろん悦んでそれを受け入れます」
氷山はひどく冷静だった。
滑舌だってテレビのアナウンサーのようにはっきりとしていた。
それなのに、氷山の言葉はするすると私の脳を滑り落ちていく。
一つも引っ掛からない。
「……帰る」
「お帰りになるのですか、詩織様」
「うん」
「お送りします」
「いい。一人になりたいから」
――放置プレイ、ですね。
部屋を出る間際、氷山はそう言った。
声には熱い吐息が蜜のようにぬるぬると絡み、滴っていた。
それは色に例えるならば深い、深い、紫。
文字にするならば、悦だった。