ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第三章 ー 6 【、を舐める】
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次の土曜日も、氷山はいつも通り土下座して私を出迎え、いつも通りアイスコーヒーを淹れてくれた。
喉を滑る黒い液体は、いつもよりやけに重い。
氷山の淹れたホットコーヒーも飲んでみたかったな、なんて未練がましく思ってしまう。
「詩織様……」
床に膝をついた氷山はテーブルの上のアイマスクにそっと手をのばし、私を見上げた。
その視線に決意を揺さぶられてしまいそうになり、下唇をぎゅっと食んで耐える。
私は氷山を解放する。
虚構の詩織様から、利己的な嘘から、氷山を解放する。
氷山は氷山を倖せにしてくれる本物の女王様と一緒になるべきだ。
こんな嘘だらけの張りぼての女王様なんかじゃなくて。
「氷山……。もう、やめよう」
そう告げると、氷山はゆっくりと瞬きして「詩織様?」と言った。
この薄い唇で名前を呼ばれるのは、今日が最後。
けっきょく最後まで詩織と呼ばれることはなかった。
「私、本当は女王様なんかじゃないの……。全部、嘘だったの」
「嘘?」
「ごめんなさい」
わずかな解放感と、それを凌駕する焦燥感。
途端に自分がこの氷の世界の異物となった気がした。
「それは別れるための口実ですか。僕では詩織様に相応しい下僕ではない、ということですか」
「違うよ、氷山はなにも悪くないよ。私、本当に本当に、女王様じゃないの。人を虐げたいとか、痛めつけたいとか、そういう願望はまったくないの」
「……違うのですか」
氷山はじわりと迫るように言った。
これまで作り上げてきた詩織様の像に亀裂が入り、ぱらぱらと粒子がこぼれ落ちていく。
「うん、違うの……」
嘘吐き、とでも罵って欲しかった。
私が氷山を叩いたように、私を叩いて欲しかった。
それなのに氷山はなにも言わない、なにもしない。
沈黙にただ、首を絞められる。
「本当に、ごめんなさい」
ぎりぎりの力で声を絞り出した。
涙がゆっくりと頬を伝い、細い線を描いていく。
謝罪と涙。
そんなものはなんの役にも立たなければ、なんの証にもならない。
それでも、なにかしら反応を返して欲しかった。
私がここにいると感じたかった。
お願い、なにか言って。
なにか私に返して。
なんだっていい。
なんだっていいから。
「ひやま……」
プラスチックのような瞳には、私はもう映っていなかった。
氷山と私の間にクレバスが走っていく。
止めたい。
止められない。
もう、手遅れ。
ピシピシと音を立て、私はすっかり氷の世界から切り離されてしまった。
呼びかけることも、飛び越えることも出来ない、どうしようもない距離。
もう戻れない。
もう繋がることはできない。
いったい私は、どうしたらよかったのだろう。