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ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第三章 ー 6 【、を舐める】

***

 次の土曜日も、氷山はいつも通り土下座して私を出迎え、いつも通りアイスコーヒーを淹れてくれた。
 喉を滑る黒い液体は、いつもよりやけに重い。

 氷山の淹れたホットコーヒーも飲んでみたかったな、なんて未練がましく思ってしまう。

 「詩織様……」

 床に膝をついた氷山はテーブルの上のアイマスクにそっと手をのばし、私を見上げた。
 その視線に決意を揺さぶられてしまいそうになり、下唇をぎゅっとんで耐える。

 私は氷山を解放する。
 虚構の詩織様から、利己的な嘘から、氷山を解放する。

 氷山は氷山を倖せにしてくれる本物の女王様と一緒になるべきだ。

 こんな嘘だらけの張りぼての女王様なんかじゃなくて。

「氷山……。もう、やめよう」

 そう告げると、氷山はゆっくりとまばたきして「詩織様?」と言った。
 この薄い唇で名前を呼ばれるのは、今日が最後。

 けっきょく最後まで詩織と呼ばれることはなかった。

「私、本当は女王様なんかじゃないの……。全部、嘘だったの」

「嘘?」

「ごめんなさい」

 わずかな解放感と、それを凌駕する焦燥感。
 途端に自分がこの氷の世界の異物となった気がした。

「それは別れるための口実ですか。僕では詩織様に相応しい下僕ではない、ということですか」

「違うよ、氷山はなにも悪くないよ。私、本当に本当に、女王様じゃないの。人を虐げたいとか、痛めつけたいとか、そういう願望はまったくないの」

「……違うのですか」

 氷山はじわりと迫るように言った。
 これまで作り上げてきた詩織様の像に亀裂が入り、ぱらぱらと粒子がこぼれ落ちていく。

「うん、違うの……」

 嘘吐き、とでも罵って欲しかった。

 私が氷山を叩いたように、私を叩いて欲しかった。

 それなのに氷山はなにも言わない、なにもしない。
 沈黙にただ、首を絞められる。

「本当に、ごめんなさい」

 ぎりぎりの力で声を絞り出した。
 涙がゆっくりと頬を伝い、細い線を描いていく。

 謝罪と涙。
 そんなものはなんの役にも立たなければ、なんのあかしにもならない。

 それでも、なにかしら反応を返して欲しかった。
 私がここにいると感じたかった。

 お願い、なにか言って。
 なにか私に返して。

 なんだっていい。
 なんだっていいから。

「ひやま……」

 プラスチックのような瞳には、私はもう映っていなかった。
 氷山と私の間にクレバスが走っていく。

 止めたい。
 止められない。

 もう、手遅れ。

 ピシピシと音を立て、私はすっかり氷の世界から切り離されてしまった。
 呼びかけることも、飛び越えることも出来ない、どうしようもない距離。

 もう戻れない。
 もう繋がることはできない。

 いったい私は、どうしたらよかったのだろう。

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