ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第三章 ー 5 【、を舐める】
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主従関係に信頼は大切だと、なにかで聞いた気がする。
いや、主従関係だけではない。
信頼は人間関係において大切なものだ。
信頼がなければ家族だって友達だって仕事だって失ってしまう。
それなのに、私は最初から嘘をついてしまった。
女王様以前に、人として不正解。
まったく正しくない、曲がった行為。
「えっ?」
思わず、パスタを巻いていた手が止まった。
彼氏と別れたという中野は、ハンバーグを真っ二つに切り分ける。飛び出したチーズが鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てる。
「なに驚いてるの、詩織」
「だって、本当にそんなこと言われたの?」
「うん。別れようって言ったら、いい奴と倖せになってねって言われたよ。言い合いとかにはならないで、きれいに別れた」
相手を想う見送りの言葉に、きれいな別れ。
そんなふうに別れられる中野の元彼氏に、どうすれば私もそうなれるのかを問いただしたい。
「ほら、詩織。早く食べないと昼休み終わっちゃうよ」
「あ、うん」
急いでパスタを口へ運ぶと、ミートソースがわずかに跳ねた。口元を拭った紙ナフキンにちいさな赤い染みが広がる。
「私たちが合ってないって、向こうも気づいてたんだよね。無理してやっていくよりも、お互いに倖せになった方がいいよねって苦笑された。でも、すごくいい顔してた」
「そう……。いい人、だったね」
「うん。ぜんぜん悪い人じゃないんだよ。私とは合わないってだけで、いい人なんだよ。なんかさ、子どもの頃は物語のお姫様みたいにいつか誰かと両想いになって、めでたしめでたし、なんて思ってたけど、現実は難しいね」
物語はいつだって「ふたりは倖せに暮らしました。めでたしめでたし」で締められる。なんて単純で、なんて非現実的な言葉だろう。
想い合っていればうまくいけるほど、私たちは簡単じゃない。
「詩織、どうしたの。ぜんぜん食べてないじゃん。なんか最近、おかしいよ?」
「……夏バテ、したのかも」
「今年は暑いもんね。でももう少しすれば、涼しくなってくるよ」
夏は、もうすぐ終わりを迎える。
ひぐらしの鳴き声は止み、青々としていた葉は枯れ色へと変わり、海を映していたような雲一つない空も、仄暗い靄がかかっていくだろう。
そうしたら――氷山は? 私は? 私たちは?
これから、どうなっていくの?
――無理してやっていくよりも、お互いに倖せに……。
パスタはもう、喉を通らなかった。