ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 5 【、を舐める】
「もちろんいいよ」
「ありがとうございます、詩織様」
「なに、様なんか付けちゃって。詩織でいいよ」
驚いた。氷山でも冗談なんて言うのか。
別に笑える冗談ではないけれど、この変化はうれしい。氷山と私は、もうただの同期ではないのだ。
これからたくさん、いろいろな氷山を見ることができる。
誰よりも、一番近くで。
「いいえ。詩織様です」
「それ、なんの冗談?」
「詩織様……」
しっとりと、熱を孕んだ声で名前を呼ばれた。
身体の中心がじんわりと熱くなり、ちいさい火花が散る。
開花しはじめた桜のように色づいた薄い唇が、私を誘うようにゆっくりと開いた。
「ずっとなりたかったんです、僕」
また、倒置法。
私は氷山の倒置法に弱いのだろうか。きゅううっと胸が締めつけられる。
「なりたかったって、なにに?」
「下僕です。詩織様の」
耳がおかしくなったのだろうか。
いま、氷山はなんと言った?
「げぼく……」
「はい。下僕です」
げぼく。
その言葉を頭のなかで変換してみる。漢字は一つしか浮かんでこない。
下僕。
そう、下僕。
「……え?」
動揺した指先が、グラスに触れた。
あっという間に傾いていくグラス。止まっていた空気を引き裂くように高音が響き渡った。
飛び散ってきらめく、薄膜のガラスの破片。
絨毯をじわじわと浸蝕していくアイスコーヒー。
そして、下僕。
下僕という単語だけが色濃くて、他のことが薄れる。
早くアイスコーヒーを拭いて、破片を片付けないといけないのに、私はまるで自分とは無関係のことのように俯瞰していた。
いや、これは無関係なことではない。
正気を取り戻した私は急いでソファーから腰をあげ、床に散らばった破片に手をのばす。
「ごめん、氷山。すぐに片付ける」
「僕が片付けるので触らないでください。怪我でもしたら」
「いったあ!」
言われたそばから指を切った。
びりりとした痛みが身体を走り抜け、指先がみるみる赤く染まる。
「ああっ、詩織様の指が……!」
氷山が、取り乱した。
表情はちっとも変わっていないけれど、声色は違う。
声の大きさだって、いままで聞いたなかで一番大きい――なんて考えていると、氷山と私の距離はなくなっていた。
ついさっきまで眺めていた氷山の身体が、私に寄り添う。
長い指が私の指を包み込み、体温が伝わる。
低い、低い、氷山の体温。
「ちょっと切れただけだから。だいじょう……ぶ」
なんの躊躇もなかった。
薄い唇からのばされた薄紅色の舌が、ぺろり、子猫のように指先の血を舐めとった。
身体中の細胞がざわざわと騒ぎだし、ちいさく熱い息が漏れる。
自分のものとは思えない、とろけきった甘い声。
手のひらで口元を抑えれば、こもった吐息で鼻の下に汗をかいた。
執拗なほど指に絡みつく舌が、淫猥な音を氷の世界に広げていく。
こんなことをされて正気を保てるわけがない。
それでもどうにか、快楽の渦にどっぷりと浸りきる寸前のわずかな理性で、どんな下着を身に着けていたかを思い出す。
駄目だ。
下着の線が服に響かないように、つるりとしたシンプルで色気なんて微塵もないブラジャーを着けている。
結果的には外して放り投げるとしても、氷山の目に触れられたくない。
それに、すぐに身体を開いてしまったら尻の軽い女だと思われてしまう。