ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 3 【、を舐める】
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氷山の家にはすぐに着いた。
まだ築年数の浅そうな大きなマンション。
入社二年目でこんなところに住めるものだろうか。しかも住んでいるのは最上階だという。
氷山は愛想以外なんでも持っている。
「どうしてこんなに立派なところに住めるの?」
「ここは親戚の所有しているマンションで、手頃な価格で貸してもらえたんです」
氷山はエレベーターのボタンを押しながら淡々と答えた。
「いいな。こんな素敵なところ、羨ましい。きっと夜景も綺麗だろうね」
「そうかもしれないですね」
「かもって……。外、見たりしないの?」
「見ません」
もったいない。
だけど、氷山らしい。
流れるような線で描かれた氷山の横顔を盗み見していると、すぐにエレベーターがきた。
私に続いて氷山がエレベーターが乗り込み、最上階のボタンに指をのばす。扉は静かに閉まり、エレベーターは上昇していった。
氷山と私。
エレベーターという密室の箱に、ふたりきり。
途端に酸素が薄くなる。
氷山からはなんだかいい香りがする。霧が立ち込める青緑の森と、そこに棲む獣のような静寂で攻撃的な香りが。
香水のような人工的な香りではない。
おそらくこれは、氷山自身の香り。
どうしよう。
エレベーターで二人きりになるだけでこんなに動揺しているのに、氷山の家に入ったら私はどうなってしまうだろう。
カラカラカラカラ。回し車で廻るハムスターのように、私の頭のなかは「どうしよう」だけが廻る。
重い玄関扉の先――通された氷山の家は、想像以上に完璧で潔癖な氷の世界だった。
床も天井も壁もインテリアも、どこを見ても黒、黒、黒、黒。
境界線が曖昧で、自分が黒に溶けたような錯覚を抱く。
丸みを帯びたものは一切ない。
すべてが真っすぐで、すべてが尖っていて、すべてがひっそりと冷気を放っている。
本当に氷山はここで生活しているのだろうか。
生活感がまるでない。モデルルームの方がまだ生活感がある。
「ソファーに掛けてください。飲み物はコーヒーと紅茶、どちらがいいですか」
「じゃあ、コーヒーを」
「ホットとアイスは」
「アイスでお願い」
海外ドラマに出てくるような広いキッチンで、氷山はコーヒー豆を挽きはじめた。氷の世界にほんのりと人間界の香りが混ざる。
まさか豆からコーヒーを淹れるとは。コーヒーには拘りがあるのだろうか。会社では知ることのなかった、氷山の一面。
それにしても――首から肩にかけてのラインだとか、想像していたよりも逞しい腕だとか、しなやか指先だとか、やはりどこを切り取っても氷山は素晴らしい。
細部まで完璧にきれいで蠱惑的で、惹きつけられる。
スーツの上からでは見えなかった氷山の身体のラインを、私はひっそりと視線でなぞった。
生絲のように繊細な線と、流木のように力強い線でバランスよく構成された身体。
許されるものなら、視線ではなく直になぞりたい。
まずは人差し指で、次に唇で、そして舌で。
ゆっくりと形を、温度を、匂いを――すべてを感じながら、なぞりたい。
きっと私はそれだけで絶頂を迎える。
氷山に触れることができたら、知らなかった扉を開けられるような、新しい扉を手に入れられるような、そんな気がする。