ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第四章 ー 1 【、を×める】
群青の空に丸いオレンジが溶け、紫に染まっていく。
これからもっと夜が長くなり、風が冷たくなるのかと思うとため息がこぼれた。
氷の世界の冷たさは恋しいけれど、それ以外の冷たさは私を物悲しくさせるだけだ。
あれから私は一人きりの週末を何度か迎えた。
昼過ぎに起きて、洗濯機が回る音を聞きながら遅い朝ご飯を食べ、サブスクで海外ドラマを漁り、気が向いたら筋トレをして汗を流し、お風呂にゆっくり浸かりながら小説を読む。
氷山とパートナーになる前の週末の過ごし方。
元に戻るだけ。
元の生活をなぞるだけ。
それだけのことが失ったものの輪郭を濃くする。
キーボードを叩く指は、今日も重い。
「クールビズも終わりだねえ。あ、氷山くんは365日ネクタイを締めてるか。さすがに寝るときくらいはネクタイを外すのかな? はははっ」
書類を提出しに来た氷山に、部長は大きな声で笑いながら言った。
周囲はくすくすと笑い、氷山は「そうですね」とだけ返した。相変わらずの対応。
きっと周りから見れば、氷山はなにも変わっていない。
通常通り、感情の見えない氷山。
だけど、私はそうは思っていない。
氷山はきっと、新しい女王様と愉しくやっている。
私とパートナーを解消してから、氷山は日ごとに活き活きとして見える。
頬の皮膚の底には薄っすらと赤みがさし、瞳の奥にはなにかが宿ったような輝きが潜んでいる。
おそらく、その変化に気づいているのは私くらい。
毎日毎日目を凝らして氷山を見つめていなければわからないくらいの、微細な変化。
だけどそれは、確実な変化だった。
「そうそう。今度の飲み会の景品も、またダブルヒヤマで買ってきてくれないか? こないだの景品、評判よくてねえ」
部長は氷山と私に視線をやった。
私はなにも答えられない。
作り笑いすらもできない。
全身が、すっかり凍ってしまった。
「わかりました」
氷山は迷いなく、いつもの顔で答えた。
まるで氷の世界での氷山と私の時間なんて微塵もなかったかのように。
詩織様と呼んでいたのに。
倖せだと言っていたのに。
私の心を心をまるごと奪っていったのに。
薄い唇が私だけに紡いだ言葉。
しなやかな指先が、生温かい舌が、私に触れた感触。
私はすべて一つ残らず覚えているのに。
本当に、心から氷山の倖せを願っていた。
だけど私の胸はいま、真っ赤な業火に包まれてしまった。
いまなら氷山を拳で殴れるかもしれない。
いまなら氷山を縄で縛れるかもしれない。
いまなら氷山を豚野郎と呼ぶ価値すらない地球上で最底辺の存在と罵れるかもしれない。
私にはもう失うものはない。
持っているのは一方的な思い出だけで、思い出すたびにそれはより鮮明に、より美しくなり、私を縛りつける。
中野の別れた彼氏のようには、私はやさしくなれない。
こんなことは絶対に間違ってる。
でも、それでも私は。
「火山さんもいいかな? 氷山くんとまた買ってきてくれる?」
部長の問いかけに答えず、私の手は鞄を掴み、私の足は会社を飛び出していた。
私は物語のお姫様にはなれない。
王子様を待つシンデレラにも、相手の倖せだけを願う人魚姫にも、私はなれない。
なってなど、やるものか。
***
飛び乗った電車に揺られながら、店までの道順を思い起こす。
目的の駅まではやたらと長く感じ、もっとスピード出して! と腹のなかで何度も叫んだ。
よほど切羽詰まった顔をしていたのか、目が合った子どもは脅えた様子で顔を背けた。
そしてようやく到着すると、私の足はすぐさま走り出した。
肌にまとわりつく温い風。
高まる心拍音に荒い息。
首や額に貼りついた髪がわずらわしいけれど、そんなことに構っている暇なんてない。
記憶を頼りにどうにか店に着いた頃には、私はすっかりぼろ雑巾のようになっていた。
客も店員も、誰もが私を振り返る。
外野なんてどうだっていい。
見たいのなら見ればいい。
私は私の目的を達成するためにここへ来た。
「やだあ。こんなの着れないってばあ」
ふいに、甘ったるい声が店内に響いた。
振り返ると、りすのように頬を膨らませた女性と、『猫耳メイドセット』を手にして目尻を下げた男性が立っていた。
「じゃあさ、うさぎならいい?」
男性はもう片手に持っている『うさ耳ナースセット』を掲げる。
「そういうことじゃなくってえ」
「絶対に似合うって。一生のお願いっ」
「やだってばあ」
「いいじゃん。俺しか見ないんだからさあ。なっ?」
「えー……。でもお」
ふたりは大きな声で内緒話にように囁き合い、壁にかけられた『犬耳ポリスセット』に話題を移した。
そう、ここは楽しい楽しい玩具のお店。
大学時代に友達とノリで訪れて、布面積のちいさな衣装に腹を抱えて笑った。
まさか、またここに来るなんて思いもしなかった。
私は踵を返し、三階まであるフロアすべてを回った。
目についた商品はすべて手に取り、すべてカゴに入れていった。
値段なんて見ない。
使用方法なんて見ない。
いまは一分一秒が惜しい。
急いで会計を済ませ、大量の商品をエコバッグにぎゅうぎゅう詰め込んだ。
私はまた、急ぎ足で駅へと向かう。
その途中、靴屋のショーウィンドウに飾られていた華奢なピンヒールを買って、すぐに履き替えた。
ぎらぎらと卑猥な光沢を放つ真っ黒なエナメルのピンヒールは、私の足によく映えた。
これで踏みつけたら皮膚は深く抉れ、赤紫色のちいさな花を刻むだろう。
化粧ポーチの奥で眠っていた口紅で唇をワインレッドに染めながら、そう思った。