ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第三章 ー 3 【、を舐める】
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氷山への返信は、一晩置いた。
『会ってあげてもいいけど』
この返事が女王様として正解なのかはわからないけれど、氷山からのお礼の返信はすぐにきた。
それはまるでスマートフォンにべったりと貼りついて私からの返信を待っていたかのような素早さで、その後のやりとりも間髪空けずに返信がきた。
どうやら私の想像以上に、氷山には詩織様の存在が深く刻まれているようだった。
「暑いなかわざわざ家に来てくださってありがとうございます、詩織様」
やはり私服の氷山には、会社でのスーツ姿とは違うよさがある。
玄関で土下座してお礼を言うのはやめて欲しかったけれど、氷山のつむじが左巻きであるということを知ることができた。
「詩織様、お飲み物は」
「アイスコーヒー」
目を細め、精一杯ツンとした口調で言った。
芝居がかっていないか心配したけれど、氷山はとくに不信感を抱く様子もなく「承知いたしました」と形のいい頭を深々と下げてキッチンへ向かった。
私は何事も形から入ることが大切だと思っているので、今日はメイクも服装も女王様を意識した。
アイラインはいつもよりやや太く、目尻を跳ね上げて力強く。
唇はリップペンシルでしっかりと縁取り、ワインレッドで挑発的に。
服はぴたりとボディーラインに沿った、丈が短いワンピースを。
どうせ脱いでしまうけれど、足元には折れてしまいそうなくらい細いピンヒールを選んだ。
背筋をスッとのばし、ヒールの音を響かせながら風を切って歩き、自分を奮い立たせながら私はここへ来た。
照りつける太陽も理性を蕩けさせるにはちょうどよかった。
「どうぞ、詩織様」
これでもかというくらい姿勢を低くし、アイスコーヒーを差し出す氷山。
コーヒーと真っ白な手のコントラストが妙に艶やかで、ぞくりとする。
ごめん、氷山。
胸のうちで謝り、私は手の甲で思い切りグラスを撥ね退けた。
罪悪感で心臓がうねり、背中に一筋の緊張が走る。
グラスは一瞬で割れた。
氷山に止められるより先に、私は飛び散った破片を拾い上げる。
もちろん一番鋭利な破片を。
ざくり。赤い球体はみるみる膨らんでいった。
窓のブラインドの隙間から差し込む光が、それを照らす。
「ああっ! 詩織様……!」
やはり氷山の表情は変わらない。
もっと深く刺せばよかっただろうか。
「舐めなさい」
赤い指先を突き出すと、氷山は大きく目を見開いた。
瞳の四方が白で囲まれ、吸い込まれそうになる。
氷山フォルダ更新だ。
この顔は、はじめて見る。
「早く舐めなさいよ。私の下僕でしょう」
「よろしいんですか、詩織様」
「早くしろって言ってるんだけど」
大袈裟に歪めた顔で心にもない言葉を吐き出すと、唇がわずかに震えた。
一瞬、氷山の氷の瞳が熱を帯びたように見えたのは気のせいだろうか。
氷山はこの前と同じように跪いて舌をのばし、ぺろぺろと従順に血を舐めた。
私の血と氷山の唾液が、指先をパレットにしてぬるぬると混ざり合う。
はじめてにしては、私の振る舞いは悪くないと思う。
だけど、まだ駄目だ。
きっとこれでは足りない。
もっともっと氷山に詩織様の存在を刻みつけなくてはいけない。
私は右足を氷山の肩にかけ、鎖骨を押し潰すように踵を左右に揺らした。
踵からはごりごりとした骨の感触が、嫌というほど伝わってきた。
氷山を壊したくはない。
力加減を誤らないように、だけど女王様としての威厳を誇示するように踵に圧をかけていく。
「んっ……」
氷山は息を漏らし、ぶるぶると身体を痙攣させた。
表情は変わっていないけれど、悦んでいるのだろうか。
抱いていた罪悪感に、達成感が覆いかぶさる。
もちろん痛めつけることが愉しいわけではない。
氷山を悦ばせているという事実に達成感を抱くのだ。
私はいまこの瞬間、これまで知らなかった扉を開くことが出来た。
ふいに、氷山は顔を上げ、私をじっと見つめた。
蕾が開花するように、薄い唇がゆっくりと開く。
「僕は倖せです」
「倖せ?」
「はい。とても倖せです」
倖せ。
とても、倖せ。
思いがけない言葉に包み込まれる。
倖せの形は、きっと人によって違う。
私にはよくわからないけれど、これは氷山にとっては倖せなのだ。
氷山は本当に、詩織様の下僕になりたかったのだ。
「踏んでいただけませんか、詩織様」
「踏むって……」
「頭を、思い切り踏んでいただけませんか、詩織様」
覚悟してきたつもりだったけれど、私の身体は瞬時にサッと後ろに引いてしまった。
女王様への道が、一歩遠のく。
氷山を、私の氷山にするって決めたよね?
自分自身にそう問いかけ、私は唇を微笑ませる。
「土下座でもして、もっとちゃんとお願いしなさいよ。この、豚野郎!」
一思いに肩を蹴飛ばすと、バランスを崩した氷山は床に倒れた。
糸を切られた操り人形のように、氷山の四肢がぐにゃりと曲がる。
「――無様ね」
私はまた、女王様への道へと近づいた。
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