ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 2 【、を舐める】
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土曜日、待ち合わせのちょうど10分前に氷山は現れた。
「お待たせしました、火山さん」
いつもの調子で言われた。社外でも社内でも、なんら変わりはない。
「待ってないよ。私も、さっきちょうど着いたところ。行こうか」
「はい」
平静を装ってみるものの、私のなかではちいさな私があちこちをジタバタしながら駆け回っていた。
まさか氷山が半袖だなんて。
まさか鎖骨が見えるなんて。
まさか腕が見えるなんて。
氷山は気温40度の猛暑日でも真っ黒なジャケットを着て、ネクタイをピッと締めている。
だから襟ぐりの軽く開いたTシャツにジーンズ姿なんて、夢にも思っていなかった。
いつもの銀縁フレームではなく黒いフレームの眼鏡が、少しカジュアルな印象を演出している。
髪型もどこかいつもよりゆるい感じがする。
話し方や態度は会社と一ミリの差分もないけれど、休日仕様の氷山が、いまここにいる。
部長ありがとう。
部長ありがとう。
部長ありがとう。
大事なことだから三回言ってみるけれど、きっと私は明日になったら休日仕様の氷山の姿は細部まで精密に描けるくらい完璧に覚えてるけれど、部長への感謝は忘れている。
私の記憶装置は、氷山のことでしか作動しない。
それから氷山と私は大きな電気屋さんやディスカウントストアを見て回った。どこへ行っても週末の新宿は混雑している。
たくさんの人に揉まれながら適当に景品を選んだ。
適当というより、テキトー。
良い加減ではなくて、いい加減。
私の目的は氷山であって、景品なんてどうだってよかった。
景品を選ぶ氷山の眼差し。
会計をする氷山の横顔。
領収書をまとめる氷山の指先。
その一つ一つを、私の頭のなかの氷山フォルダに収めていく。
氷山フォルダは更新が止まらない。
表情に大きな差はないけれど、それでも一つの無駄もない。
すべてを収め、すべてを愛でる。
「その袋、僕が持ちます」
「大丈夫だよ。氷山、両手いっぱいだし」
「貸してください」
氷山は軽々と荷物を持った。その腕に走る青々とした血管に、目が釘付けになる。
「どうかしましたか」
「ううん、なにも」
想像していたとおり、氷山の口数は少ない。
それでも氷山の隣を歩くだけで、私の胸はひたひたにじゅうぶんに満たされる。
いま私を搔っ捌いたら、甘ったるくてどろどろとした糖蜜が溢れだすだろう。
「どこかでお茶でもして休憩したいけど、景品は多いし、どこのお店も混んでるし……。お店に入るのはなんだか申し訳ないね」
いったい、どうして新宿にはこんなに人が集まるのだろう。
私は景品の袋をぎゅっと握りしめた。
景品なんてぜんぶ放り投げて、氷山と向き合いたい。
むくむくと膨らんでしまった欲は暴走寸前だった。
「僕の家、ここから近いので行きますか」
さらり。
氷山はいつもの感情のない、ただ文字を読み上げる口調で言った。
私、明日、死ぬんじゃないだろうか。
それともこれは真夏の夕の夢なのか。
夢だとしたら、目を覚ます前に氷山の家へ行きたい。氷の世界を覗き見たい。
「じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
氷山と同じ温度の声で私は返した。
口角をゆるませたりなんてしないように。
目を輝かせたりなんてしないように。
高鳴る胸の音を漏らしたりなんてしないように。
常に低温の氷山の隣には、そんな女は似合わない。
「では、行きましょうか」
「――うん」
ヒト臭い雑踏のなか、私の内側は秘かに、けれど力強く波打った。