労うということ
私は非常に共感しやすいタイプである。
否、共鳴といってもいいかもしれない。苦労話を聞くと、自分のことのように胸が痛むし、背景を想像すると何だか筆舌に尽くし難い想いを感じ、誰かこの人を今すぐ抱きしめてくれないだろうか、と考える。
臨床心理学では、ロジャースの三原則というものがある。「共感的理解」、「無条件の肯定的関心」、「自己一致」がその内訳に当たる。最後の自己一致、というのはつまり自分に嘘をついていない、という意味である。裏腹ではないこと、「あるがまま」の自分であることにも、少し通ずるかもしれない。
臨床心理学を学んでいたときに口酸っぱくして言われることは、「理解したつもりになるな」ということである。例えば誰かから相談を受けたときにアドバイスをしたり、「解ったように」労うことは、カウンセリングのなかでは良しとしない。
最近ではしかし心理学から離れて、そうした姿勢も結構薄れてきた。(少なくともカウンセリングではない場所では)理解したつもりから、真の理解が育まれる道が舗装されることもあるし、人はやはり嘘でも軽佻でも「言葉」を掛けられたら、またそうした姿勢が見えれば嬉しいのかもしれない。
ただ、その人の事情を想像すればするほど、事がその人にとって核心部分であればあるほど押し黙るというか、軽薄に声を掛けることに烏滸がましさを感じる自分が居る。これはやはり前述した学びによるバックボーンが大きい。そうではないこともあるが。
とはいえ、何だか今日は言語化したほうが良いような気もするので、そのまま思い切って話し進めてみることにする。あとで怒られるかもしれないけれど、まぁそのときは、そのときで。対話にはタイミングというものがあり、そのとき伝えなければ後悔することも、確かにあるような気がしているのだ。
例えば自分の歩んできた道を、精神分析的な概念で言えば「知性化」しながら処理をしている人が居たとして、いわばそうして自分のインナーチャイルドを無意識に押し込めている場面に遭遇するとする。それはその人が環境に順応し生き延びるためのサバイバルスキルであり、本当によく今まで頑張ってきましたね、というほかなく、その切断面に包帯を巻いてあげたい、と心境を形容するならそんな感覚に近い。
その人が何故いま言ったのか、どのように言語化したのか、誰に聴いて欲しかったのか、今まで隠していたけど本当は私はこうだった、と走るのを止めて崩れるように涙を流しているように、自分には思えてならない。
もしかしたら、これは内なる自分からの一つのサインなのかもしれない。こんなことを言うと本当に無責任だが、人生において、自分や過去や未来を捉え直す一つのターニングポイントというものが決定的にある。捉え直す、というか、自分—自分、自分—過去、自分—未来、それぞれの関係性が見直される、あるいは次のフェーズに差し掛かるタイミング、と言い換えても良いかもしれない。
何を根拠にこんなことを言うのかといえば、私自身が過去と決別し、また過去と共に生き直す局面に至ったときに、確信的に感じたことだからである。やっと、過去を受け入れられる。その兆候として、今まで無視していた部分に目を向けて、吐露したくなる、そんなときは内なる自分が「もうあなたは大丈夫だよ」と言ってくれているような気がする。少なくとも私においては、そうだった。
そのときに初めて、振り切ってた自分を自分で抱きしめたり、話を聴いてあげたり、労わったりすることができるようになる。そのあとに憑き物が取れたように軽くなるならば、それは一つのイニシエーションなのかもしれない、とすら考える。いま思えばね。
自分で自分を労うことは、きわめて大切なことなのだけれど、例えば誰かが自分の長年の疲れを自覚していたときに、誰か近くに労ってくれる人は居るだろうか、とまた余計なことを考える。人は独りで生きていけないのは、人には普遍的愛が必要だからである。
愛があるからこそ、また歩き出すことができる。少なくとも私が何度も立ち上がることができたのはその、普遍的愛、隣人愛といってもいいかもしれない、そうしたアガペーを分け与えてもらえたからにほかならない。
この世は本来繊細な人間が、感情を幾重にも持つ人間が生き残るためには厳しすぎる。ただ生きているだけでも平等に労われるべきことである。それではぬるいという視点もあるかもしれないが、私に言わせればそれが既に資本主義に侵されている。とはいえ、これからもその成果主義のなかで生きなければならず、分裂しそうな自分とも折り合いをつけなければならないであろう。
そのような世知辛い世の中でせめて、自分を労わる「癖」をつけてあげられたら、どこかで頑張っている人をどこかで心配する人は少し、安心するのだろうと思う。
普遍的愛の欠片を込めて、ここに慰労の意を記す。
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