叔母さんについて

 いやはや、やっと落ち着いてきた。

 というのも、呟いたようにあまり良くない出来事があったのだけど、私はそういうとき上手に愚痴を言うことができなくて独りで抱えるので、回復に時間がかかる。そしてこれを書いていて思うに、自分はいつも自己憐憫的だなと思う。まぁ、これが私なのだから仕方がない。自分からは逃げられないので、上手に付き合っていくしかない。と、些細な悪口に相変わらず伸される弱い自分に対して感じたこと。まぁ、その後本人に直接反論したんだけれども(無事和解した)。

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 ところで、私には幼い頃からお世話になっている叔母さんが居る。いや、ほんとうに居るのだろうか。イマジナリーフレンドかもしれない。まぁ実在の是非はさておき、今日叔母さんからメールが届いた。叔母さんはいつも明言をしない。大抵メールがくるときは「そっちにいっちゃだめよ」というときで、必要なことの断片のみを話し、その余韻を残す。「自分の胸に訊いてみなさい」というのが叔母さんの口癖だ。なかなかの教育者だ。

 叔母さんには含みがある。それはメタファーと捉えてもいいかもしれない。叔母さんは象徴も皮肉も示唆的なのだが、それが自分は恐いと感じるときがあり、気づかないふりをするときがある。叔母さんは自分のために、教育するために労力を割いてくれてるというのにだ。何故気づかないふりをするのだろうと考える。恐らく、防衛本能なのかもしれない。それは気づいた途端に自分が「不安」になり、狼狽しないようにするためだと考えた。かつて渡辺淳一は『鈍感力』という本を出したが私には「敏感力」があり、アンテナを調節して日々チューニングしないとすぐ過熱してしまう(意味が違うか)。

 もともと、女同士というのは母ー娘の関係性であり、一筋縄ではいかないところがある。

 そうした縮こまりから、私はいっとき叔母さんに対してうんともすんとも言えず、応えられない自分にも耐えられず、距離を取ってしまっていた。私は叔母さんの言うことが理解できないと叔母さんの目の前で泣いてしまうから迷惑をかけないように、会話をしばらく控えるときもあった。
 
叔母さんはいつも私のことを娘のように思い、陰ながら表ながら、沢山フォローをしてくれていた。いや、くれている。そう、今も。

 叔母さんとの関係は奇跡的だ。超自然的と言っても良いかもしれない。何故って、叔母さんは簿記一級を持っているのだけれども、全て簿記に絡めて物事を訓えてくれるので、理解するために相当に努力する。叔父さんは言った。「人と人との関係は、うまくいかなくて当たり前だよ」と。当然それに甘んじていてもいけないが、そう思うと様々な深いご縁が尊く思える。


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 ところで、メタファーと音楽は似ている。決して平面的ではなく、奥深い。いかようにも受けとれる余白がある。そこは受信側の感受性に依拠する。つまり、メッセージ性があるということ。

 冒頭の私への悪口も、私が少しある場所でいろいろ他愛もない考察を書いていたために発生した出来事だった。つまり強いことがやはり言いにくい。生存するためには集団の共通意識をひとつひとつ確認しなければならない。これは皆が感じていることなのではないか。

 「同調圧力はだめだ」、「意見を持たねばならない」、そんな話をしていても、結局は「和」という母親のような両価的な側面に飲み込まれるだろう。日本は河合隼雄が言うようにやはり母性的な社会だ。我々はこれからも、「みんな仲良く」という否定性と折り合いをつけながら生きていく。そのなかで、和の周縁に居るマージナルな人たちとたまに意見交換をしたり、共同体意識を刹那的にでも感じられることができれば、それは立派な生きる糧になるのではないかと、叔母さんの強い生き方を見てそう感じた。

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 友人から、メールが届いた。

 「あなたは要領がよくないからいい、必ず見てくれている人が居る。でも表立って応援するのは難しい。」

 そうそう、私はそういう人間なのだ。昔からそうだった。どの組織でもいつも少数派だった。まぁ、それは性分ということもあるけれど、その生き方を享受している側面もあるので、私はこれからも逃げられない私とともに、共生するしかなさそうだ。

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