玄人とは何か
2021/3/22 寄稿
🐣 玄人とは
私は学生時代に邦楽ロックにハマり込んでいました。元々兄の世代にビジュアル系ブームが流行り、その流れでイエモンを好きになりました(初期のイエモンは完全にグラム系でした)。思春期に独りで過ごすことが多かった私なりに何かを極めたくて、そこからミッシェル、ブランキ―、ゆら帝や、サニーデイ、はっぴいえんど、さらに遡りルースターズやサンハウス系列、テクノ御三家や戸川純、フライングキッズ、人間椅子などのメタルも責めよう、そしてINUやスターリン、じゃがたらや頭脳警察など、どんどんとルーツを辿っていきました。それらの音楽はいまでも好きで、救われることもしばしばあります。ですが私のなかにどこか「音楽通と思われたい」という感情があって、王道ポップを余り聴いていませんでした。恐らく自分の中にルサンチマンが存在していたのだと思われます。だけどそうしたコミュニティはどこか居心地が悪くて、却って加藤ミリヤや西野カナ、浜崎あゆみやAKBを聴いている同世代と過ごす方が居心地が良かったことを覚えています。その人たちはまさに他者に対して開かれていた方々だったのですよね。
それで何が言いたいかというと、それは勉強にも同じように変換できるかもしれなくて、やはり何処か人には「玄人だと思われたい、素人だと思われると恥ずかしい。」という意識が存在していて、その気持ちがもし人に向くのであれば、そうした目線が勉強そのものを窮屈にさせているかもしれないな、と率直に感じました。たとえばよく「難しい言葉を使いたがる」と揶揄的に言うことがありますが、そうして語彙を増やして使い方を覚えていくものだと思うので、私はその揶揄に昔から疑問を覚えています。現代では通過点を許さず、完成形いわばエンテレケイアを要請しますよね。その「素人の部分を見せてはいけない、玄人でいなくてはいけない。」という意識もまさに優生的思想を育んでしまうというか、そしてそこを通り抜けても、今度は選民思想を生んでしまうのではないかと思いました。
私が尊敬して大好きな方々は、本来社会的弱者である私を偏見でもって、ラベリングしない方々なのですね(少なくとも私側はそう思っています)。どんな性別だとか生育歴とか、肩書や経歴だとか、多少の判断材料にするにしても、そうしたいわばオプションではなく人柄を見てくださっているのが分かるので、私は信頼を置いています。
フランクルの一番好きな言葉で、「私が尊敬して仰ぎ見るような本当に偉大な人々は、それこそ私を非難するだけの権利を十分に持っているのに、決まって寛容で、私の努力の至らない部分を見逃してくれ、いつもその裏に何か肯定的なものを見ようとしてくれた。」とあり、これは文字を打っていて胸につまるほどなのですが、まさに私の大好きな方々というのはこの上記のような方々なのですよね。そこにこそまさに知識ではない知性や品性が宿るような気がして、これは一生敵わないと、模倣にさせていただいております。
誤解してほしくないのが私は基本的にマイノリティ側だからこそ、決してマジョリティと対立しようとは思っておらず、飽くまで対話の意味で今回書かせていただきました。だからこそ啓蒙の意味でも私はかっこ悪い部分をどんどん見せたいですし(変な言い回しですが)、取り立てて社会的地位もなく、関係者以外に個人情報が出ているわけではない私はいわば「見知らぬ人」だからこそ、言えることがあることに、やっと本当の意味で気づきました。何よりもう、自分のことを取り繕いたくないのです。自分に正直でいることが、結局一番楽であり、一番合理的なのだと(≠損得勘定)、皆様のお陰で改めて、感じさせていただくことができたのでありました。
ちょっと押し付けがましく感じられたら、ごめんなさい。ご容赦ください。無形のものは自分のなかに残り続けて、言葉も例に漏れません。もし何年後かにでも、頭の片隅に置いてありながら、生きるのが辛いときに引っ張りだしていただければ、これ幸いに存じます。
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