人類学について

4/16 寄稿


ユタとの共存 

 沖縄では、シャーマニズムの概念が輸入されるまでは「巫術」と呼ばれていました。私は前回の記述で、シャーマンおよびユタの自己効力感について、量的研究を基に仮説を立てましたが(精神医学の観点から)、調査を進めるにあたり実はユタは迫害され、偏見を受けている時期があったとのことです(濵、2011)。それは実際に科学的ではないため、人々に悪影響であり、多くの人々や沖縄全体への足枷ではないかという理由のもとから成り、数々の批判的論文や書籍が出るにまで至っていたと述べています(詳細は参考文献の論文にて興味深く記されています)。しかし依然としてユタを尋ねる人々が絶えないとの旨から、ユタにおける是非論が行われていました。つまり彼女らもまた、マイノリティのような存在であったといえるといえるかもしれません。

それから1990年代に入り、色々な文学作品や日本における癒しブーム、そして欧米でのニューエイジ運動などから再評価されだしたのだといいます。その潮流から学問分野で研究され始め、そこから徐々に認められ、浸透しだしてきたと脇本ら(2019)の研究においても説明されています。前回、シャーマンおよびユタは最初から恵まれていたのではないかなど軽佻な考察をしてしまい、こころよりお詫び申し上げます。

開かれてゆくこと

 そうした事実を鑑みると、従来の学説にも受け継がれているように根本的に精神疾患と区別する可能性があるようにも、考察することができます。つまり「環境」で決して恵まれているばかりではないのであれば、前回の私の仮説は棄却されることになります。というのも、佐々木(1992)によれば、何も憑依や脱魂のようなトランス状態に陥ったからといって、それが全てシャーマンを意味するわけではないと述べています。続けてアフリカでよく見られる様相として、実際にそれが精神疾患の一種であり、呪医やシャーマンの治療こそ必要である人物も少なくない割合で存在するとしています。

 こうした治療者と被治療者は全く従来のカウンセリング的構造にも似ていて、シャーマンが「野のカウンセラー」とも言われるように、ある種の原初形態とも捉えることができます。実際に、文献のなかにあるシンガポールや長崎の各5つの事例では、心身異常が起きた際に病院などにいき、治らなければシャーマンを尋ね、治っていく例が散見されます。もっとも、これは成功例だけを挙げたのか、それとも当事者がシャーマンをどう捉えているかに因るプラセボ効果もあるのかもしれません。たとえば、カウンセリングで子どもが主体的ではなく連れられてくる場合、しばしば抵抗を示すことがあるようです。それは我が国におけるカウンセリングの認知なのか、それとも国民性に依拠した現代の社会的文化背景の問題なのか、様々な要因が挙げられると思います。
 いずれにしても、治っていく過程のなかでは既存の知識を疑ったり解消し、新たに情報を取り入れ直すことで、「開かれて」ゆくことに深く根付いているような気が、私にはしてなりません。


ノロという神人

 もう一つの参考文献にある論文では、こちらも実態調査として量的研究を基に、綿密に紐解いています。まずインタビュー調査として、当事者に直接に調査を行っています。当事者は「ユタ」ではなく「ノロ」と呼ばれる職位の方です。ノロというのは神職者の通称である神人(カミンチュ)の上位者である女性司祭者です。現代ではノロは祈りを務めることが役割であり、日常生活ではユタのように交わることはほとんどありません。ですからユタが全国区であるのに対して、ノロは琉球史に詳しい人でないと知らないことが多いようです。

 ノロは王国時代の琉球政府に任命され、国家公務員として職位につき、全身全霊で祈りを捧げてきた存在です。その職務の詳細は、国王を精神的に支え、国王と王国全土を霊的面で守護し、安寧を祈る、といった行いでした。ユタが民間の霊能力者であり、個人の判断と鑑定する謂わば市民生活の示唆役であるのに対して、ノロは当時に組織化され国家的祈りを任命された人々でありました。政治の流れが変わり、ノロは国家公務員としての役割を終え、現代では地域の祭祀を担うようになりました。興味深いのがこのときにインタビューしたノロは、おまじないや祟りには懐疑的で、唯一予知夢だけは信じているとのことです。ノロが世襲制であることも関係しているかもしれません(論文には実際のインタビュー写真も記載されています)。

 


質問紙調査から

 引き続き脇本ら(2019)の論文では、男女で分けて不思議現象に対する質問紙結果分析を行っています。この結果から、女性のスピリチュアリティへの信仰因子得点が男性より有意に高いこと、男性の懐疑因子得点は女性より有意に高いこと、などが示されてきました(元の論文にはそのほか詳細に記述されています)。なぜシャーマンには女性が多いかとの相関が少し浮き出てきたように思います。つまり超自然的な存在との親和性が高いんですね。それはしかし何も私だけの考察ではなく、参照した最近の下記記載論文でも、40年前の下記記載参考文献でも見受けられるように、そこには社会的文化背景が大きく関わっているといいます。沖縄では「セジ(シジ)ダカイ」(霊的に高い)や、「サーダカウマリ」(神生の備わった人として生まれついている)などの言葉があり、それは往々にして女性に適用されます。では何故女性に偏るのかといえば、ここはジェンダー論に深まってくるので割愛しますが、そうした社会的な流れのなかで、自ずから社会的分業として確立されてきたとも考えられます。

 こうしたことから、文化的文脈によって生成されてきていることが、文献などを追うことにより分かってきました。マイノリティとして迫害・偏見されたが跳ね除けたユタや、ジェンダー的要素によって作り出されたシャーマンの男女比。全ての事象が学際的につながっていて、社会的要因を避けられないのであれば、こうした未開から脈々と継がれる文化も決して対岸の話ではないように思います。一見関係がないような分野にも、目を凝らせば見えてくる微細な人生のヒントがあるように考えています。実際に家族や友人、同僚がいきなりカミダーリのような「キツネに化かされる」ような事態が起こらないともいえないのです。そうしたときに、前述したような「開かれた」知識があることによって、狼狽するか対処するかということも、変わってくるように私は感じています。


参考文献:佐々木幹著『シャーマニズムーエクスタシーと憑霊の文化―』中公新書(1980)
佐々木幹著『シャーマニズムの世界』講談社学術文庫(1992)

     濵雄亮氏『足枷から資源へーユタ評価の重層性―』サイバー大学(2011)(file:///C:/Users/ishiy/Downloads/2019_27_29-52.pdf)
     脇本忍・方予辰・隆重各氏『沖縄シャーマニズムについての実態調査』聖泉大学(2019)(https://www.cyber-u.ac.jp/about/pdf/bulletin/0003/0003_06.pdf)

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