働き方とユーモアの話


 ある新聞のコラムを読んだ。やはり文筆業を主たる生計としている人は、文才が歴然だと感じた。示唆に富んでいて、大変深く考えさせられるものがあった。

 そのコラムには、仕事にまつわることが書かれていた。自分と照らし合わせてみる。私はいま、週に2、3日程度、細々と働いている。20代半ばからそんなふうな働き方だった。周りからは「もったいない、フルタイムで働けばいいのに」と助言していただいたことも多々あった。キャリアやスキル、将来貰える年金などを考えれば至極当然のアドバイスだと思う。しかしどうもフルタイムで働く器量が「もう」自分にあるとは思えない。

 というのも、私は遡れば高校生の頃から、生活費や学費を稼ぐためにフルタイムで働いていた。苦しいことが大半だったが、やりがいもあり、楽しいと思うときもあった。誰かに、社会に必要とされてその歯車になり朝から晩まで働くことは、自分が生きているという心地も感じることができた。

 しかしそれは視点を変えれば、ランナーズハイに嵌っていたということでもあった。あとでどっとツケがきてしまった。耳の病気も再発してしまった。身体が何よりの資源だということを、そのとき身に染みて実感した。資本主義というけれど、身体が一番大切な資本じゃないか!

 それから慢性的な疲労状態になり、余り長くは働けなくなってしまった。そこで、ワークライフバランスを考え、幸い生活にも困窮していない現状も鑑みて、現在のような働き方を続けている。

 ということを、仕事のタスクが多すぎて大変そうな友人に本当は送るつもりだった。送ったところでどうするのか、その友人が仕事を減らすわけにもいかないだろうし、伝えたところで自己満足なのではないかと悩んで引っ込ませた経緯があった。その友人が何かに不安になっていることは知っていた。だから特に友人の素振りについて何も気にならなかった。ただ、物事には時間が必要なこともあるから、そういうときは僭越ながら時を重ねるようにしているのだった。

 人の価値観や生き方というものは、その人の「痛み」から形成される。仕事で身体を壊した人は、働きすぎを心配する。マイノリティで生きてきた人は、同じような境遇にいる人に共感を示してくれる。痛みを抱えて生きてきた人は、その痛みが多いほど他者へ、あるいは弱者へも、慈悲心を惜しみなく与える傾向があるように思う。恵みを与えることは、愛を与えることにほかならない。それが人生において、人が豊かに生きるうえで重要だと述べたのは、エーリッヒ・フロムだった。

 思えば私のほうが、友人に無茶苦茶なことを言ったりしてしまったりしていた。だからもし怒りを向けられたり去られたりしても、私には咎める筋合いはない。むしろ、そうした無茶苦茶を見ても、それでも何の世俗的見地も付与させずに自分のことを見てくれていることが何よりの僥倖だと思った。

 これまで働いてきたなかで、辞めたあとも必ずそのなかの一人とは繋がった。もちろん意図しなかった。もしかしたらそれは、至極楽観的に、あるいはナルシスティックに捉えれば、この資本主義下でろくすっぽ成果も出せず、周りに迷惑をかけつつ、それでも自分なりに頑張った一筋の報いとしてのご縁なのかもしれないと感じた。こうした慈悲深い人たちのお陰で、この世知辛い世の中でも何とか性善説を保ちながら生き延びることが出来ている。

 さて、先人の言葉をもう一つ借りるのであれば、ヴィクトール・フランクルが繰り返し述べたユーモアの話だ。フランクルが収容所のなかから出られず絶望の最中に居るとき、彼を、彼らを支えたのはユーモアだった。彼らを、というのは曰く、人は絶望の底に足をつけたとき、そこにはもはや希望そしてユーモアしか残っていない、ということを収容所のなかで最後まで生き延びたフランクルは、周りの収容者を観察して感じたのだった。

 私の個人的な話に立ち戻せば、幼少期から辛い想いをすることが多かった自分には、ギャグ漫画を読むことが何よりの楽しみだった。小さい頃の至福と言えば、夢を見ることか笑うことくらいしかなく、収容所と比較するのは傍から見ればおかしいが、まさに家庭に収容されていた私にとっては、絶望のなかのユーモアが実家に出るまでを支えてくれたのだった。

 しかし最近痛感したことは、そのユーモアを強制する暴力性があることだ。全く意識が欠けており、自身の体験とフランクルの学説を信じて疑わなかった自分にとって、まじめにする重要さを見逃していた。その話もコラムのなかで示唆深く記述されていた。これまでまじめに生きてきたつもりだったのだが、どうやらそのまじめとは違うらしいことを、コラムを読んで感じた。
 
 今でも、そのまじめを感得できている自信はない。恐らく、道徳的なまじめさではなく、人生経験知的なまじめさなのかもしれない。ただ、その文筆者は決して書きたいから書いたのではなく、人生相談に則って、その相談者のために、あるいは読者のために、自分の痛みを分け与えてくれたのだ、というのが私の考える仮説だ。そしてそれは教育に似ているとも思う。人が人に教育をするとき、思い入れがあるほど「自分と同じ間違いはするなよ」という教訓を託す。む、一般化しすぎかもしれない。少なくとも私はそうだ。

 人に教育されることは有難いことだと最近しみじみ感じる。今度、職場に新しい方が入ってくるので、暖かく歓待しつつ、教育をしてゆければと思う。そのなかで自然と何か、ペイフォワードできるものがあればよいなと願う。

 

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